ザ・ダイアモンドDAYS


『周助君、私ね、高校は青春学園に行く。』
君がそう言ったとき、僕は何が何でも反対するべきだったんだ。

『でも、彩林大付属高校でピアノを勉強してヨーロッパに留学したい、高校からも推薦が来てるって…。』
『いいの。留学はいつでもできるもん。ピアノの練習も青学で出来る。人生でたった一回の高校生活を周助君と過ごしたいの。』

もう決めたの!そう言い切る君に反論ができなかった。
と同じ高校になれたら楽しいだろうな、そんなことを考えていた自分がいたから。


でも、その数ヵ月後、僕は人生で今までないほどに後悔をすることになる。
が青学を選んだからこそ、狂ってしまった彼女の人生とピアノの経歴を、今更無かったことにはできないんだ。







が入学する前、何よりも心配していたのはの学校での立場。
お互い違う中学に行っているころは、一緒に帰るときも彩林までを迎えに行って、決して青学で落ち合うようなことはしなかった。
その結果、が何か問題に巻き込まれるなんてことが起こるはずもなく平穏な学校生活をお互いに送っていた。

平和ボケしてしまっていたんだ。


ファンクラブ、そんなものが青学のスポーツ系の部活にはどこの部にもあって、もちろん僕が所属するテニス部にもあった。
あまり穏やかでない噂を聞いたこともあって、心配はしていたけれど、まさかあそこまでする集団だとは思わなかった。





国立音楽大学進学率ナンバーワンと言われている彩林女子中・高等学校出身ということで、
春休みには入学が決まった青学から入学式後の交流会でピアノを披露してくれ、と依頼の手紙が来ていたらしい。

あの時は、あんなに楽しそうにピアノを弾いていたのに。

高等部に進学して2ヶ月したある木曜日、3時間目と4時間目の間の休みに携帯にかかってきた着信は、僕たちの関係を終了させる鐘になった。



『何かあったらすぐに言って。約束だよ。』

『分かってる。でもね、私ファンクラブの女の子の気持ちわかるよ。周助君のこと本当に好きだから、何に変えても手に入れたいって思うのはきっと同じ。私が、高校の推薦蹴ったみたいにね。』



心配しないで。

君は何回そう言ったかな。




























2学期になってから、また2階の第3音楽室からピアノの音色が聞こえるようになった。

あそこはが放課後毎日練習に使っている教室だ。
一番大きい第1音楽室は吹奏楽部が、第2音楽室は隣のクラスの斎藤君が使っているのだと彼女から聞いたことがある。
てっきり第1音楽室はオーケストラ部が占領しているものと思っていた。
オーケストラ部は体育館脇の大講堂を使っているのだという。講堂使用料で部員は毎月1000円を払うのだとか。

と知り合って、知ったことは多い。





今まで、親の敷いた人生のレールを文句も言わずに歩いていた。
、中学校は私立に行くのよ。』私の意見は聞くこともなく独断した両親。
小学校5年生のころには親が取り寄せた私立中学のパンフレットで机が溢れかえっていた。

春、桜が舞う青春学園の校門を一人で潜った。知っている顔がまるでない。
新入生クラス分け表で自分のクラスが7組ということは確認したけれど、肝心の教室がどこなのか分からず、
あまりの孤独に下駄箱で泣いていた時、声を掛けてくれたのが菊丸英二という男の子だった。

『ほら、泣かないの!一緒に行こう!』
まだ涙が止まりきれていない私の手を取って、教室まで引っ張ってくれた男の子。
クラスは違かったけれど廊下ですれ違うたび目で追うようになっていた。








ちゃん、一緒にテニス部のファンクラブに入らない?』
1年のクラスで一番最初に仲良くなった女の子に誘われた。
最初は演劇部で大変だからと断っていたけれど、『部活じゃないから大丈夫!掛け持ちしても問題ないよ!』そう言われ承諾した。

あの菊丸君がテニス部に入ったことを知っていたからだ。


演劇部が休みのときに顔を出していたテニス部のファンクラブは、クラブ内でまた「○○先輩ファンチーム」と分裂していた。
どのチームにも所属しなかった私だけど、2年生の秋、それまでレギュラーだった3年生が引退して、
あの菊丸君がレギュラーになったときには真っ先に「菊丸ファンチーム」に加わった。

時間を見つけてはテニス部の練習を見に行って、レギュラージャージの菊丸君に釘付けだった。





『うちのチームは平和で良かったよね!』
そんな意味深な発言をする同じチームの同級生がいた。
何のことか聞いてみると、私が知らなかったファンクラブの内部事情を教えてくれた。

『手塚君と不二君のファンチームの女子は度を知らないんだよ。』


テニスをしている彼らを応援するだけでなく、勝手な恋愛感情を抱いて、女同士で闘争になっているのだという。
そんな漫画みたいな話が本当にあるのかな、そう当時は思っていた。

それが事実だと知ったのは、3年に上がってからの話。
不二君のチームの女の子たちが落ち着かない様子でフェンス越しに彼を見ているのに気がついて、聞き耳を立てた。


『不二君の女、まさかこの学校の子じゃないよね。』
『そうだったらチーム長に言ってシバいてもらわなきゃね。』
その数日後から不二チームの3年がクラスを一つ一つ回って聞き込みをするようになった。
でも、該当する女子が現れることもなく「不二君に彼女がいるらしい。」という噂は風化していく。

私はそんな噂があったことがあったことすら忘れていた。
エスカレータで青春学園高等部に進んだ4月のある日の放課後、中庭で不二君と一緒に座って笑っていた女の子を見るまでは。


あの子は確か、入学式が終わった後の交流会で楽しげな曲をピアノで弾いていた女の子だ。

とても、とても上手だった。

















、聞いた?不二君の彼女の話!!』
『あ、うん。音楽で有名な彩林女子中の子だったんだってね。』
『何でわざわざ青学に来たのかな?青学なんてスポーツくらいしか有名なとこないのにね。
何事もなければいいけど。ほら、不二ファンクラブの人たちとさ。』

『まぁ、それは大丈夫でしょ。』
大丈夫でしょ、と軽い返答をした。まさか不二君が彼女のことは守るだろうと思っていたから。


でも、その考えは甘かった。
私も、きっと不二君も誰もがそう思っていた。





青春学園中等部から高等部へ上がった元中等部テニス部レギュラーの噂は、私たちが入学するころすでに高等部の女子先輩方に伝わっていたようで、
菊丸君や不二君をはじめ高等部テニス部に入部した乾君、河村君、大石君の人気は最初から絶大なものだった。

しかもファンクラブに所属する先輩の多くが中学のときより執拗さを増していて、近寄るのすら怖い。
そんな雰囲気があった。

『これ以上彼女たち関わるのは良くないかもしれない。応援だけなら、ファンクラブに入っていなくたってできるよね。』

私はクラブから身を引いた。高校部でも入った演劇部の傍ら、菊丸君を応援できれば満足だ。
もうきっと、直接話す機会もなくなるかもしれないけれど、そう覚悟していた。
でも神様はまだ私の恋を応援してくれていたようだ。


私は高校1年で始めて菊丸君と同じクラスになることができたのだ。
!よろしくね!』
名前を教えた記憶もないのに、私の名前を呼んでくれた。驚きと嬉しさで、浮き足立つ毎日を過ごした。

『いつも応援してくれてサンキュ!』
ファンクラブに入っていたことも、菊丸君のテニスを見ていることも言ってないないのに、私の姿に気づいてくれていたんだ。

屈託なく笑うそんな彼がもっと、もっと大好きになった。











『告白してみようかな。』
そんなことを考えるようになった。菊丸君が近くにいる毎日は本当に楽しくて、時間は信じられないほど早く過ぎていく。
一緒にいられる時間は長くてもこの高校生活終了まで、だったらほかの女の子のように当たって砕けたっていいじゃないか。そう思った。


『うわぁ、次音楽だよ!ッ教室移動移動!』
『え?ああ!!不規則時間割り!?』
次の時間は数学だとばかり思っていた私たちは、慌てて席を立ち上がって音楽の教科書をロッカーに取りに動いた。
刹那、バンッ!!!っと教室の後方のドアが開けられて、私たちの注目は音楽の教科書からドアの方向へ移された。

そこには息を切らした不二君が、珍しく目を開いてとても慌てたように立っていた。

『英二!!見なかった!?』
『不二どうしたんだよ、そんな慌てて。ちゃんなら来てないぞ。』
あまりの焦りようにただ事じゃないのだろう、と想像がついた。

『あの、不二君。って彼女さんの?』
『君は…さん?』
『はい、です。さん何かあったの?』
『実は非通知で携帯に着信があって、出たらの悲鳴が聞こえて。』

まさか、と顔を歪めた。でもという子が悲鳴を上げなきゃいけない状況にあるなら、
私に心当たりはあのファンクラブの先輩たちしかなかった。

いてもたってもいられず走り出そうとする菊丸君のワイシャツを無意識に掴んでいる手が震えた。
『私、3年生の女子トイレ見てくる。』

?心当たりがあるの?』
さん、僕も一緒に…。』


『ううん。不二君はここにいて。私の勘が当たってたら、あなたが来たら余計大変なことになりそう。』
その時の不二君は、はっ、とした表情をしていた。
私は彼の心を抉るような発言をしてしまったかもしれない。立ちすくむ彼を置いて走り出した。

菊丸君と一緒に駆ける廊下がとても長く感じた。
途中、音楽の授業の始まりのチャイムが鳴った。サボり決定だ。



3年の教室があるのは東棟の2階と3階。女子トイレは2階に1つだけ。
菊丸君にちょっと待ってて、と促して一人で中に入った。

10つある個室トイレを恐る恐る一つずつ確認して廻る。

自分の勘違いかと、胸を撫で下ろそうとした一番最後の個室で失神している女の子を見つけて驚きに声をあげた。


彼女の手は真っ赤に染まっていて、顔面が蒼白。
私の悲鳴を聞いて飛び入ってきた菊丸君と、偶然通りかかった英語の先生に頼んですぐに救急車を呼んでもらった。


あの日、交流会で楽しそうにピアノを弾いていたこの子の残像が頭に浮かんだ。
























『本人が起きてから手を動かしてもらわないと、ちゃんとした回答は出せませんが…。』
病院では、学校から電話をもらって駆けつけてきたのお母さんが涙を流していた。

『指の神経が傷ついているかもしれません。』
『なんで…なんでがこんなことに!!!』



学校は、の件をイジメとして捜査に乗り出した。
何百人もいるテニス部のファンクラブの生徒は警察の力も借りて片っ端から調べられた。

事件の日にはが目を覚ました。
幸いなことに神経に損傷はなく、完璧に傷がなくなればまた元のようにピアノを弾けるだろうということだった。
「ごめんね、大切なテニスの試合前なのに。」
病室でも人のことばかり気遣って、僕には至って普通に振舞っていたけれど、後で看護師に聞いた話、
自分の手を見たときのショックが酷かったようで、1週間近く何も喉を通らなかったらしい。

毎年出場している大切な夏のコンクールを見送らなければならないほどにナイフで深くつけられた傷跡。ピアノを練習すれば開いてしまう無数の傷口が痛々しかった。



その次の週から、また学校に登校するようになったを見る周りの視線が冷たいことに気づいたのは彼女の荷物を代わりに持って、教室まで送っていったときのこと。

この数日の間に、ファンクラブとの争いの噂は学校中に広まったようでが「おはよう。」と声を掛けたクラスの女子は何の反応も見せず無言で迎えた。

に関わると自分たちもヤラれる、そう思ったんだろう。






『これ以上事が大きくなって、テニス部と関係があることが分かったら、テニス部は最悪地区大会出場停止だ。』
そんな話を耳に挟んだんだが警察の捜査に全面的に協力しなかったことで、結局犯人も分からないまま。

その事件はそのまま放置された。

事件から2週間後、が病院の検診へ行っている間、一度のお母さんに呼び出された。
話さんとしていることは分かっていたし、覚悟もしていた。


がいつも楽しそうに話している周助くん、ってあなたのことね。』
『はい。』
『こんな形で会うことになってしまってごめんなさいね。』

『…僕のせいなんです。彼女を、彼女を守ってあげられなかった。』
『あの子はそう思っていないわ。それに−。』
『…さんとは別れます。』

すみませんでした、失礼します。投げやりに言葉を残して、引き止める彼女の母親の手を払った。

座っていたカフェを飛び出して、誰もいない雨のストリートテニス場にうずくまった。













これ以上、が傷つかなくて済むなら、突き放そう。

そう決めたのは、降り続く雨の夜。

涙が溢れて止まらなかった。