ザ・ダイアモンドDAYS


『綺麗だね。』

中等部3年の冬、毎日学校を出て駅への道を歩くと、必ずといっていいほど楽器屋の前で飾られたピアノを見ている女の子がいた。
その子に始めて声をかけたのはクリスマスの少し前だったと思う。
通りが赤や緑のランプで彩られて、駅前には大きなツリーとクリスマスソングのバックミュージックが雰囲気を引き立てている季節。

いつも後姿だけを見て、素通りしていたその子に声をかけると、ピアノに見入っていた瞳が大きく揺れた。
「綺麗」はピアノを指したものじゃない。窓に置かれた彼女の長い指と繊細な手に対してだった。
もちろん、彼女はそんなこと気づかなかったけれど。キョトンとする彼女にマフラーをかけた。
去年の冬に姉さんがくれた紺のマフラーは女の子が着けていてもおかしいものじゃない。


そのマフラーがまた彼女に会う機会をくれるだろうか、そんな期待をしていた。





数日後、そのマフラーは僕の下に返ってくる。残念ながら彼女本人には会えなかった。
偶然にも幼馴染だという手塚が部活に持ってきたのだ。
御礼のクッキーとありがとうございました、と書いてあるカードと一緒に。

『不二、と知り合いだったのか。』
『いや、寒そうだったから貸したんだ。マフラー。』
という名前も手塚から知った。知り合いでもない人間に普通はマフラーなんて貸さないだろう。
首をかしげる手塚が不意に提案したことがキッカケで、僕は彼女に再会することになる。




『来週が出るコンサートがあるが一緒に行かないか?』
















彼女は小さいころからずっとピアノを弾いているらしい。
視てもらっている先生の教室が開催するクリスマスコンサートに彼女もゲストとして出るのだという。
クリスマス直前の土曜日、午後3時から始まったコンサートにはピアノ教室の子供たちを始め、連弾を披露する成人の姿も見られた。
彼女が弾いたのは有名なドイツ人作曲家が200年前に作ったワルツ。少し悲しく聞こえるそれは、聴き入っていた聴衆の心に響いた。

彼女が紡ぎ出す音楽は、ピアノの才能がある人間だと素人でもわかるレベル。
最後の音を出し終り、彼女に送られた拍手はその日一番大きいものだった。

『毎年上手くなっている。』

手塚は小学生のころから毎年このコンサートに招待されるのだという。
舞台衣装から、ラフな格好に着替えた彼女が手塚を見つけて駆け寄ってきた。
隣にいる僕を見つけた彼女が、一度大きくお辞儀をした。

顔を上げた表情は演奏終了の安心感と優しさに満ちていてあまりにも屈託なく笑う瞳にどうしようもなく惹かれていた。





『まいったな・・・。』
連絡先を交換した帰り道、初めて誰かに惚れるという体験をした僕は柄にもなく戸惑っていた。

それ以後、約束を取り付けては何度か一緒に映画に出かけたり、彼女の練習を見せてもらったりするようになった。
「好きだ。」というのは分かっているのになかなか言い出せない。告白されることはあっても自分から告白した経験がないからか、どうしても一歩を踏み出せなかった。
僕に告白した女の子たちはみんなこんな気持ちと戦っているのかと思うと、断り続けた自分がなんて白状なんだろう、なんて思えて余計に頭を抱えた。
告白しようと決めた2月、実行に移した4月。この2ヶ月は鬼のように濃かった。








幸せだった。

一緒にいれた時間はそんなに長いものではなかったけれど、君の傍にいるときだけは本当に寛げて、
キスをするときは何よりも愛しくて、ずっとそんな時間が続けばいい、そう願っていた。

でも、僕がそんなことを望まなければ、最初から告白なんてしなければ、君は傷つかなくて済んだのに。もっと素敵な将来を送っていたかもしれないのに。
そんなことを考えずに、「一緒にいられればいい。」なんて思っていた自分は子供だった。



大人にならなきゃいけないんだ。君のために。

辛いけれど、傷つけてしまうけれど、それより大きな痛みを僕が負うから。


『僕たちの関係、終わりにしよう。』
『…どう、し、て。』

目に涙をためる君を支えてあげられなかった僕を許してほしい。
ちゃん、しっかり!』そう叫ぶ英二の声が責めるように背中に当たる。
振り向けない、が泣いているところを見たら、何に代えても抱きしめてしまうから。

その日も、その次の日も、テニスに集中するどころじゃない。
ぽっかり空いた胸の穴をどうにか誤魔化す事で自分自身精一杯だった。













…。」
あれから2年半、今でも毎日口に出す名前があるんだ。

それは僕があの日手放してしまった子の名前。

僕が初めて恋した、世界で一番大切な女の子。