ザ・ダイアモンドDAYS


少し、ピアノから離れてみようと決めた。
1年前よりも、先月よりも、そして昨日より心が晴れている今だからこそ、一度すべてをリセットできるかななんて思ったんだ。


鍵盤を3日触らない生活なんてここ数年なかった。今日はその4日目。
いつもなら終業のチャイムが鳴って向かう第3音楽室の窓を外から見上げた。そして校舎を背にして校門を潜り、街で買い物をした。

久しぶりに洋服とかアクセサリーを大量買いして家に戻ると、私が提げるバックの数々を見た母親が笑った。

「今日はケーキでも一緒に焼こうか。」
「…うん。」

お母さんのこんな風に笑う顔をこの2年見たことがあっただろうか。












はまた週末いないんだって。」
お母さんは卵と小麦粉を混ぜながら少し呆れたような声で言った。小学生までお母さんっこだった弟の
テニスを始めてから家にいることが殆どなくなって、一番寂しいのはお母さんだろう。この週末いないというのもきっと練習試合かなんかだ。

「試合でしょ?お父さんと応援行くの?」
そうねぇ、と生地を型に流し込む母親はそれでもどこか嬉しそうだ。青学のレギュラーの座に着いたんだ両親も鼻が高いんだろう。

「…行こうかな。私も。」

「え?」

のテニス、見に行こうかな。」

最後にテニスというテニスを見たのは高校に入る直前。ドイツに行った手塚君の壮行会として青学で行われた他校の生徒を招いての試合。

プレイヤー全員が、とても輝いていた。お母さんが驚くのも無理はない。
元彼と別れてからテニスの話を家族はタブーにしていたし、すら今部活がどうなんだああなんだって話は私の前で絶対しない。

その私が自分からテニスを見に行きたいなんて、お母さんは絶対期待していなかった。

こんなに驚いた顔をしているのが何よりの証拠。

「お母さん、生地垂れてるから。」











その日の夕方、は思いがけない客人を連れて帰宅した。
玄関でその人物を迎えたお母さんが階段を駆け上がって私の部屋を騒がしくノックする。

、お客さんよ!」
何で息を上げているのか、全く分からず背中を押されるまま下へ降りると、もう何年も会っていなかった珍しい人が堂々と玄関にいて、私はしばらく放心状態で突っ立ていた。

「久しぶりだな。」
また少し大人びた。

?」

「…久しぶりすぎでしょ。国光君。」

私は体に穴が開くのではないかと言うくらい、彼を凝視した。

































『せっかく何だし手塚君と外食してくれば?』
そう母親に2人分の食事代を渡され私たちは近所のファミレスに来ている。

今日中学校でお世話になったあの竜崎先生に挨拶しに青学を訪れていたところ、を見つけて私に会いにそのまま家まで来たのだと言う。

手塚君がドイツに行ってからの近況を私のお母さんは彼のお母さんから伝え聞いていた。
正月にニューイヤーメールをもらってからはや10ヶ月。突如現れた懐かしい人物に、質問は絶えない。

「思ったよりも元気そうでよかった。」
その言葉に苦笑した。知り合いの多い彼のこと、私と不二周助のことは言わなくても知っているはずだ。

「ナイスタイミング、だったかな。この数日は元気なの。」
その前はどうだったんだ、なんて聞かない。説明しなくても、彼なら察してくれるだろう。
彼は見た目が大人なだけじゃない。とても優しい人間なんだ。

「いつまで日本にいるの?」

「日本オープンが3ヵ月後に控えている。それまではこっちで調整して春にはドイツへ戻るつもりだ。」

「じゃぁ、同じ時期に航空券とろうかな。」

「航空券?」

「…今度のコンクールの成績によっては日本を出るからさ、私も。音楽の聖地西欧。彩林高等学校の先生が大学留学して来いって。」

「冬のコンクールか。」

「そう。」
なんて、上位二位までに入ればの話だけどね。そう笑い飛ばした私に注がれる、手塚君の目は真剣だった。



「できるさ。なら。」

あまりに当たり前のようにいう手塚君にありがとう、と呟いた。


















「今週末、の試合だろう。」

「そうらしいね。私も応援に行くつもりなの。本人にはまだ内緒。」

「では、会場で会おう。」
そう言う手塚君の目は、私が会場に来ることを期待している、そんな輝きがあった。

「じゃぁ、週末ね。」
そう言って別れた。関東トップ5に入る学校のレギュラーの試合は、外部の人間にとってスカウトや情報収集の場となる。
もちろん、高校の人間が見に来て何らおかしいことはない。


分かってる。

もしかしたら青学高等部のテニス部が見に来るかもしれないこと。
今の私は、いるかもしれない懐かしい面々に会えることをどこか楽しみにしている。
桃城君とか、海堂君とか、手塚君がいるということでもしかしたら越前君も帰国しているかもしれない。

その反面、不二周助がいるかのしれないと考えるだけで心臓がバクバク鳴っている私がいる。






もう戻れない。
時間は戻らない。

なんで、こんな対極な関係にしかできなかったんだろう。きっと自分が子供だったからだ。



もう少し私が大人だったら、友達としてやり直すことはできたはずなのに。
今の関係を後悔している自分がいる。心の片隅でこんがらがっている糸を解けるなら、私は行動しなくちゃいけない。

と菊丸君が示してくれたように。

それは彼の絡まった柵を解くことに繋がるだろう。




「あの人の悲しそうな顔、苦手なんだよね。」


呟いた言葉がアスファルトに落ちていった。