ザ・ダイアモンドDAYS
逃げ出したい、そう思った。
いつもは元気で、良く笑うのあんな真剣な表情は久しぶりにみた。
きっと、あのベンチでの出会い以来だ。会話内で何度も出てきた「不二君」という言葉に心が反応する。
心が、思考が忘れようとしていた「不二」という人物との思い出や出来事が、の一言一言でその記憶を鮮明なものに呼び起こされていく。
溢れてきそうな涙を限界のぎりぎりのところで堪えているせいで、鼻から目の辺りが異常に熱く感じた。
もうこれ以上は聞いていられない、席を立とう。そう思ったけれど、出来なかった。
私じゃない、が泣き出したから。
は自身と菊丸君の過去の話を驚くほど淡々と語った。
彼女が菊丸君に告白したとき、本当は二人が両思いだったこと、結果的に私と不二周助のせいでフラれたこと、今でも彼が好きなこと。
本当に若干の抑揚も見せない冷静な言葉では会話を一方的に紡いだ。
でも、おそらく彼女が本当に話をしたかった私と不二について会話が差し掛かったとき、彼女は泣き出した。
バックからハンカチを取り出して、一度強く目に当てる。ハンカチが離れた目は真っ赤で、さっきまでの冷静な声色は消えうせとても感情的になっていた。
「、私と知り合ったころすでに自分の感情閉ざしていたよね。」
そう、そうせざるを得なかったんだ。悲しみという感情から自分を守るために。
私はにひたすら目を丸くしていた。口を挟むことなんて何もない。彼女の言葉は事実なのだから。
「私はあの入学式でピアノを弾いていた本当のと知り合いたかったよ。ずっと、ずっと思ってたけど口に出さなかった。がそれでいいなら、って思ってたから。」
「。」
「でもさ、このままでいいの?が不二君のこと今どう思ってるのかは分からないけど、『本当の』はこのままじゃダメだって分かってるんじゃないのかな。」
「私は…。」
ギュッとスカートの布を握り締める。今もそう、否定できない。「不二なんて人間どうでもいい。」って言えない。
外壁に塗りたぐり造った自分が壊れていくような感情に襲われた。
「不二君、今でものこと見てるよ。」
「…何言って−。」
「この前の夏のコンクールも会場に来てた。」
知らなかったでしょ、そう微笑むの顔が涙で歪んだ。気づけば頬を涙が伝っていて、手が少し震えだす。
彼が会場へ?どうして。
「アルバム製作委員会の帰り一緒に不二君と帰ったことがあってね。がよく行ってたって楽器屋さんの前で教えてくれたよ。
不二君がを突き放した理由。さ、本当に不二君がのこと嫌いになって面倒くさくなってフッたと思ってる?」
「…。」
「違うよね、きっと。彼、のこと守りたかったんだよ。当時の先輩とか、ファンクラブの女の子たちから。私はそう思ってるよ。」
涙が手の甲に落ちた。
泣きたいわけじゃない。涙が勝手に流れている。この感情を私はどう扱えばいいんだろう。『のこと守りたかったんだよ。』
「…なんでよ。なんで…なんで。私は、あんなに好きだったのに。」
ああ、なんで。なんで私はこんな風にしか気づけないんだろう。
「一緒にいられるなら、何も怖くなかったのに。」
「うん。」
「本当に、本当に好きだったのに。」
「うん。」
自分の口から出た言葉に驚いている。
今まで表で冷静な人間を装ってきた『裏の自分』が、これ以上言うなと叫んでる。
それに逆らって、閉じこもっていた本当の自分は主張を繰り返す。その言葉は涙声でハッキリしていなかった。
そしてはやっぱり泣いていた。
二人で馬鹿みたいに泣いて、ウエイターや周りのテーブルに座る客は目を丸くしてこちらを見ている。
一頻り泣いて、飲み物を体に流し込んだ。アイスティの冷たい温度が、火照った体を落ち着かせる。
「ちゃん。」
瞬間聞いたことのある声が私の背後から響いて、顔を上げた。は赤い目でヒラヒラと手を振って、その人物に座れ、と彼女の横に置いてあったバックをどかした。
「久しぶり、りん。」
「…久しぶり。菊丸君。」
同じ学校の生徒だ。たまに見かけることはあったけれど、こうやって話すのは2年ぶり。
不二周助にフラれた日、私を家まで送ってくれた日以来のことだ。
「私ね、にこの話する前に自分のこともどうにかしなくちゃって、菊丸君とちゃんと話したんだ。」
ここに菊丸君がいるということは、この2人は上手くいったのだろう。
良かった、心からそう思った。
座った菊丸君は「やっぱり泣いたね。」っての涙の跡に手を伝わせて、今度は私に向き合った。
その瞳はまっすぐ私の中の何かを見ているようだった。
「りん。不二の話、俺からしてもいいかな。」
「…。」
コクリ、と首を立てに動かせば、本当の自分が裏の自分に語りかける。
『もう逃げちゃだめ。』
「じゃぁ。月曜学校休むとか絶対なしだからね!!」
「うん、分かってる。、菊丸君どうもありがとう。2年前のお礼も言えてなかったね。」
「気にするなって。月曜日、みんなで一緒に昼食とろうにゃ。」
最後には中学の頃のあどけなさを見せてくれた菊丸君とにバイバイと手を振った。
帰路へついた親友の手を、菊丸君の手が握っていた。勇気を出したが手に入れた幸せだ。
二人の背中に目を細めて空を仰いだ。
もう夜が訪れていて、街のネオンに負けないように星達が競って輝いている。
カフェを出ると私の足は何年かぶりに自然とあの楽器屋へと向かっていた。
ショーウインドウにあのピアノはなくて、中で働いているのは知らない店員。時間がたったんだな、そうしみじみ実感する。
『俺がりんと家まで届けたあの日、バック取りに一度部室に戻ったら不二がさ、泣いてたんだ。テニスで悔しい思いをしたときの泣き方じゃなかった。』
『あいつきっと後悔してると思うんだ。』
『この2年、何度女の子に告白されても断り続けていたのは、あの時の傷が癒えてないからじゃないかな。』
菊丸君の言葉が木霊する。
私はずっと守られていたんだ。
彼ははあの頃「一緒に帰るときは僕がを彩林中まで迎えに行くから。」って毎回のように言ったけど本当は私が青学まで行って、ファンクラブの人に目を付けられないように気遣ってくれていた。
そして、高校1年の時、私を突き放したのも菊丸君やが言うように私を先輩たちから守るためだったのかもしれない。
「…ごめんね。」
ショーウィンドウに手をついて、地面に向かって呟く。
自分のことしか見えていなかった私。
自分が一番の被害者だと思い込んでいた私。
彼や周りの人間がどんな気持ちで何を思うのか、今まで無視し続けてきた私。
時間はもう戻らない。どんなに足掻いても、願っても。
「またやり直すことはできるのかな。」
今なら、見える気がしたんだ。このガラス窓の先に、あのピアノが。