ザ・ダイアモンドDAYS
「これを弾いてみろ。」
秋風が強いある日の放課後、いつもならコンクールの曲を鑑賞して、その感想を言うだけの金本先生がわざわざ持ってきたという楽譜の題名に、眉間の皺がよった。
「…どうしてですか?」
「弾けと言っている。」
窓から吹き込む風はまだ夏の香りを残しているのに、この楽譜のせいで、私と先生の間には冬のように冷え切った空間がある。
理由も尋ねさせてくれない命令に、私は仕方なく指をピアノの上に置いた。
「春風」というモダンなピアノ楽曲は、とても明るい爽やかな春を思い起こさせる。
ピアノを弾いている人間なら誰でも知っている有名な曲。
この曲を弾くのは入学式以来だ。まだ、高校生活に夢を抱いていたころ好きだった曲。
棘が胸に突き刺さる想いで、弾きだした。
『はこの曲弾いてるときすごく幸せそうだね。』
『だって大好きな曲だもん。この曲ってね、周助君のこと思い出させるの!なんでだろうね、爽やかなとこが似てるのかな?』
弾き終わるまでの間、私の心此処に在らずといったら相当なものだった。
旋律なんて楽譜を見なくても指が覚えている。何度も何度も弾いた曲。
私は勝手に動く指をまん丸の目で見ながら、頭中で繰り広げられる思い出の回想シーンをぼうっと思考の端で捕らえていた。
鍵盤から手を離すと、手の甲に雫が落ちた。
自分の涙だと気づくのに時間がかかった。
「何故泣いている。」
腕を組んで、私の全てを見透かしたようにグランドピアノに詰め寄る先生。鷹に狙われたウサギのような気持ち、逃げたい、そう思った。
先生の質問には答えられない。答えたら、もう止まらなくなってしまうだろう。
私は、第2音楽室を飛び出した。ドアを引くと、第三音楽室の前壁に寄りかかる斎藤を見つけて一度止まった。
斎藤の目は私を射抜くかのように研ぎ澄まされていて、怖い、そう感じた。そしてまた駆け出す。
今日は一体なんなのだろう。
先生も斎藤追いかけてこない。
真っ赤な夕日の光が、窓から差し込む1階の廊下に蹲って泣いた。
最後の小節で脳裏に蘇った不二周助の笑顔が消えない。
まだ、幸せだったころの記憶。私の原動力だったあの笑顔。
震える手を押さえながら嗚咽が漏れないように息を殺して、流れる涙をこれ以上流さないように努力した。
何で
何で泣いているの。
望んで不二周助という存在を自分の中から消し去ったはずなのに。
ずっと閉じ込めてきた「記憶」を垣間見た瞬間に、作り上げた今の自分が壊れてしまった。
『本当の自分を取り戻せ。』
いつか金本先生が言った言葉が、ドクンドクンと波打つ鼓動と一緒に脳内に反響した。
「ずいぶんな荒療治だね、金ちゃん。」
「早く立ち直ってもらわないと俺の計画がゴミ箱逝きだからな。」
子が飛び出してた第三音楽室には相変わらず生ぬるい秋風が吹き込んでいる。
床に落ちた春風の楽譜を拾い上げた金ちゃんは一つため息を吐いて、手を額に当てた。
「…まったく、天才的な才能を持つピアニストが、恋の一つや二つで潰されてはたまらないな。」
「同感。」
10月の第三土曜日、コーヒーのカップを片手に電車で5駅先のストリートテニス場へ向かった。
同じクラスの乾から、週末そのテニスコートで引退した青学テニス部3年と、
かつて中等部でレギュラーだったほかの学校へ進んだメンバーが集まってテニスをするという情報を聞きつけたからだ。
テニス部自体に用があったわけじゃない。その中の一人に会いたかっただけ。
先週のアルバム政策委員会で、斎藤が口にしたの話を私は今日まで毎日のように考えていた。
このままじゃいけない。
答えとして浮かび上がった回答がこれだ。閉ざされたの心をどうにかして戻してあげたい。
そして楽器屋の前でみた不二君のあんな悲しそうな顔は二度と見たくない。
そう思って勇気を出して訪れたテニスコート。ベンチで仲間と談笑する目的の人物を見つけて、足を進めた。
「さん?」
手前のベンチでガットを直していた不二君が立ち上がって、同じく私を見つけた乾がとんでもない色の液体が入ったグラスを手に近づいてきた。
「二人ともこんにちは。ちょっと菊丸君、借りてもいいかな。」
「菊丸、お呼びだ。」
「乾、なになに−。」
自分の名前に反応した菊丸君の無邪気な顔が、乾の後ろに立つ私の姿を確認するや否や真剣なそれに変った。
ガタリ、とベンチを立ち「移動しよう。」低い声で一言うと隣接の公園の方向へ歩き出す。
私は、一度後ろを振り返り、不二君に目を合わせた。
『不二君との応援をする前に自分の決着をつけなきゃいけない。』
この2年、溜め込んだ蟠りを解くんだ。
いつもとは違う菊丸君の様子に、他のメンバーがなんだなんだと見入っている。
心配そうな視線を向ける不二君と乾に大丈夫、と手をヒラヒラ振って、先行く菊丸君の背中を追いかけた。
「と菊丸か。大丈夫かな。」
「どういう意味?」
「…不二知らないのか、あの二人のこと。」