「やっと着いた。」
関東大会3週間前の週末、幸村の見舞いを早めに切り上げて普段使う駅までバスと別のバスに乗り、40分をかけて此処までやってきた。停留所に足を着いて一度背伸びをすると背骨がバキッと一度音を鳴らす。左と右を見廻して発見した正門に掲げられた『青春学園中等部』の文字に安堵の息を吐き出す。
目的地に無事到着だ。
立海に比べればこじんまりとした小さめの学校。ウォークマンのイヤホンを外すと、上階から吹奏楽部の合奏が聞こえる。
「・・・あ!!」
この曲は戦艦ヤマトの主題歌じゃないか!
そう思わず足を止めて上階を見つめた。きっとスポーツ部の大会で応援に吹くのだろう。立海にもこうゆう曲のセンスが欲しい。去年は関東大会決勝で「トトロ」が流れてきたんだよね。顧問の中野先生がトトロにゾッコンな時期だったのが悪かった。
「ヤマト、リクエストしたら吹いてくれるかな。」
あの中野響先生だもん。『任せとけ!だが俺へのリクエストは高いぞ!はっはっは!』なんて言いながらやってくれるに決まってる。
今日は日曜日なのに活動に参加する生徒で青春学園内は賑わっている。視界に映る限りの生徒が私を見て、首を傾げる。視線の嵐に気付かないフリをしながら、見られているのは羽織っている厚手のカーティガンのせいだろうかとそれを脱いだ。今日は太陽が強くないし、少しくらい肌を出しても湿疹はでないはず。
ただでさえ自分の知らない学校で私は珍しい他校の制服を着る部外者。目立つ原因は少しでも多く摘み取りたい。
「テニスコートは校舎の裏だっけ・・・?」
先週、青春学園の男子テニス部訪問の許可をもらうため電話を掛けた。顧問の龍咲先生は事情を話せば『もちろん構わないよ。』と承諾をくれた。
前方からテニスボールを打つ音が聞こえたのと同時に目的地のフェンスが見えてきた。小さな身体で大きなラケットを振る一年生、その奥のコートで打ち合いをしているのは2年生だろうか。
テニス部の練習を見ている女子生徒に紛れて、少し選手達を観察した。女子の群がり様は立海の男子テニス部とそう変わりない。観客の中には青春学園以外の制服の女の子もいる。ここの学校のテニス部もまた、学校の枠を超えて人気者のようだ。
「さて、そろそろ・・・。」
数分、ぼーっと練習する部員を眺め、練習に付き合う女性を一人発見して群れから脱出した。別に男子の練習をスパイに来たわけではないのだ。目的は別にある。
会いたかったのは、コート上で見つけた女性。
「竜崎先生。」
フェンスの外から少し声を上げて彼女を呼んだ。振り返った当人は「ああ。」と上げていたラケットを下ろし、口元に笑みを作った。突然の他校性の訪問に練習の手が止まったテニス部員達。彼らはその視線を私に向け、やはり首を傾げる。中には怪訝な表情を向ける男子も。きっと私の制服が関東大会で一番のライバルになる立海のものだからだろう。スパイか何かだと思われている。
「忙しいのによく来たね。遠かっただろう?」
「いえ、今日部活は副部長に任せてありますので。今日はお時間をとらせてしまい申し訳ありません。」
「構わないさ。例の物を職員室から取ってくる。レギュラーはあっちのフェンスの中で練習試合してるよ。見学しがてらそっちで少し待っててくれ。」
「分かりました。それではお言葉に甘えて・・・。」
ペコリ、去っていく竜崎先生と続いてフェンス内の1、2年生にお辞儀をして指示された方向へ歩き出す。
こんなところで青学レギュラーの試合が見られるなんて何てラッキーなのだと、胸が躍った。
熱いな、そう単純に思った。
シングルスも、ダブルスも、同じチームのメンバー相手に全員が全力で試合に臨んでいる。立海の練習で見るような異様にピリピリとした殺伐感は此処にない。心地良い緊張感とテニスを楽しむ姿勢、そんな雰囲気を肌に感じる。
シングルスのコートには不二さん。彼が相手にしているのは背が低い、キャップを被ったどこかで見た顔。
いつかテニス雑誌で特集が組まれていた、全米ジュニアのタイトルを獲った少年だ。
「越前リョーマ。」
ああ、あれが。
青学期待のルーキー。
「負けちゃったみたい。」
いくら天才ルーキーと騒がれても、流石に先輩のレギュラーにはそうそう勝てないようだ。不二さんは爽やかにコートを後にして、残された帽子の少年は心に闘志を燃やしている。彼が不二さんを超える時、それはきっと今部活を率いる3年が引退して、いつか青学が全国の舞台で表彰台に上がる時。
技術だけじゃない。テニスの才能だけではない。
勝利にはプレイヤーの心の成長とメンタルコントロールが必要不可欠だ。その2つが、あの越前リョーマにはまだ備わっていない。今日初めて彼を見た私が言い切れるほどに、あの子のコート上での態度、そして振る舞いは幼い。
「さん、いらっしゃい。」
はっと我に返り、視線をルーキーから外して声を掛けられた方に向ける。フェイスタオルで汗を拭く不二さんがニコリと笑ってフェンスの扉を開けた。
「外から見ていないで入ってくればいいのに。」
どうぞ、と促され慌てて頭を下げコートの中に足を入れた。同時に注がれたレギュラー達の視線に、居た堪れなくなりまた頭を下げる。
顔を上げれば眼鏡を掛けた長身のテニス部員が「レッドローズの訪問か。歓迎するよ、どうぞこれはウェルカムドリンクだ。」真っ赤な異臭のする液体の入ったカップを差し出され後ずさり。
「こらこら乾。さんは甘いものしか口にしないよ。」
「ああ!去年立海の部長とYONE○オープンにいた女の子だにゃあ!」
だにゃあ?
去年のYONE○オープン?
「・・・確かあの時手塚さんをかっ攫っていた。」
「菊丸だよー。その節は手塚がデートの邪魔してごめんにゃあ。」
一瞬の出来事だったのに、顔で私を覚えているなんて記憶力のいい子だ。でもあれはデートじゃなくて部長会議だった。
「初めましてさん。君の話は不二から聞いているよ。俺は副部長の大石だ。どうぞよろしく。」
「立海女子テニス部部長のです。よろしくお願いします。」
「ねえ、あんた。」
大石さんに突然の訪問を詫びようと思っていた時だ、背後から呼ばれた気がしてゆっくりと振り返った。その先には、さっき不二さんに負けたルーキーが私にラケットを突き付けている。
「こら、おチビ!お前お客さんに失礼だろう!」
「そうだぞ、越前。」
「私は構いませんよ。」
後輩を叱ろうと身を乗り出す大石さんと菊丸さんを宥めて、自分よりも大分背が低い帽子の少年を見る。眼光は、強い。不二さんを、手塚さんを、そして真田や幸村を思わせるような瞳の輝きをこの子も持っている。
「あんた、レッドローズなんでしょ?」
「そう呼ばれているね。」
「俺と勝負しようよ。」
「悪いけど、却下。」
「何で?」
「何でも。」
「いいじゃん!」
「よくない。」
不毛な言い合い。
他校から来た訪問者のくせして試合に応じるなんて軽率な真似は出来ないし、何より私の左腕は目下使い物にならない。青学ルーキーとの試合に興味がないと言えば嘘になるけれど、我慢するしかない。
「ちぇっ・・・ケチ。」
ケ、ケチ?
「ケチじゃないよ。ただ、今君と試合をしても意味がないからやらない。」
そう。たとえこれが公式の親善試合で、私の腕が完全だったなら、
「今の君じゃ、私には勝てないよ。」
カチン、まるで何かを投げられ頭にそれがぶつかったような、そんな効果音がピッタリの表情を彼は見せた。納得できない、そう言わんばかりの蟠った顔。
「君個人のためにテニス部があるわけじゃない。」
その私の一言に、不二さんが顔を上げた。
「越前リョーマという選手がこの部活にどれだけの可能性を与えられるか、それが分かったら試合してあげる。」
部外者の私がこんな説教じみたことを言うのはどうかと、言葉にしてから後悔したけど、フッと笑みを浮かべる3年生のレギュラーを見て、どうやら間違ったことはしていないようだと安堵した。
こういうルーキーの上に立たなければならない彼らは大変だ。
私の部活には越前リョーマタイプの部員がいなくて良かったとそう思う。一番性格が近そうなのは茉莉亜だけど、彼女は何だかんだ彼のように自分を中心に物ごとを考えることはしない。(ただ表現の仕方と言葉遣いが悪いだけで)
「あんた・・・部長と同じようなこと言うんだね。」
ドイツへ発った手塚さんがこの少年に託しているもの、それはきっと小さな身体にはまだ大きすぎる期待。
何を言われたのか知らないけれど、少し苦そうな表情を見る限りそれは今の彼にとって重荷でしかないのだろう。
「それよりさん、今日はどうして青学へ?」
「ああ、えー・・・っと。」
「私が頼んだんだ。」
大石さんに訪問理由を聞かれ、言い訳を考えていなかった私が取り乱しそうになった時、丁度A4大の封筒を持ってコートへやってきた竜崎先生が救いの手を差し伸べてくれた。
「立海の男子顧問と関東大会の指導陣運営を協会に頼まれていてね。幸村君の見舞いがてら近くに来ていた彼女に先方に渡したい書類を手渡ししてもらおうと。、これが書類だ。よろしく頼むよ。」
「・・・はい。責任を持って男子テニス部の顧問に渡します。では、私はこれで。これ以上練習の邪魔をするわけにはいきませんので。」
「さん、校門まで送るよ。」
持っていたラケットをベンチに置き「行こうか」と先導を始めた不二さんの後に着き、今日何度目か分からないお辞儀。そしてコートを後にする。視界の端に野球部やサッカー部がグラウンドを駆け回っているのが確認できる。
それを通り過ぎ、校門まで続く道の誰もいないそこで急に立ち止まった不二さんが私を振り返った。私が初めて目にする彼の瞳の色。その表情は少し険しさの中に、心配そうな感情を感じさせる。
「君も、リハビリにいくのかい?」
開いた目が見ているのは私の左腕だ。
私は彼を凝視した。
手塚さんだけじゃない、不二さんにもバレていたらしいことに驚いた。
「仕草かな。さっき竜崎先生に渡された封筒を右手で受け取るのを見るまでは半信半疑だった。」
「素晴らしい洞察力。てっきり手塚さんが話されたのかと思った。」
「手塚はそう簡単に口を割る人間じゃないよ。君の腕の事は誰にも話していないと思う。うちの乾は情報家だからすでに知っている可能性はあるかもしれないけどね。」
幸村を知っているから、部長のいない立海のテニス部を知っているから、言葉にせずとも不二さんはライバル校である立海を心配している。
危機下にあるのは男子テニス部、女子テニス部も似通った状態にあることを知った彼は私の心配までしてくれているようだ。
優しい人なのだと思う。
「・・・主治医に一刻も早い専門的なリハビリを勧められています。だから竜崎先生に相談した。手塚さんの件もあったから、きっと良い施設をご存知じゃないかと思って。この封筒の中身は手塚さんがいる施設のパンフレット。」
「全国大会はどうするんだい?」
「うん。」
うん。
答えになっていない。答えにしたくない。
「担当のセラピストに今年の優勝と、選手生命を賭けろと言われた。」
不二さんの瞳が大きく開かれた。同情に満ちるその瞳に苦笑して、空を仰ぐ。もう、昼間の真っ青な色がそこにはなかった。
「私の部活は、私がいなくても優勝できる。」
そのために技術と、知識を部員に残していく。
「我儘なんです、私。結局部員と優勝を祝うことを諦めても、自分がテニスをする理由を、そして目標を失いたくない。」
自分の選手人生が終わるのはいつか槙野ツグミと対戦するその後だ。
「だから、行きます。」
空の青が夜に向かい紫がかった空の下で黙って私の話を最後まで聞いていてくれた人は同じ学校の人間じゃない。
何年もお互いを知る馴染みでもない。
知り合って間もない、他校で、男子テニス部のライバル校。それもレギュラー。
それでも、私を友の一人として話を聞いてくれた。
「ありがとう。」
別れ際、自然にその言葉が漏れる。
「聞いてくれて、ありがとう。」
それは部員にも、顧問にも、そして家族と幸村にも話していない自分の決意を受けとめてくれた不二周助という選手に対して私が出来る最大限の感謝表明だった。