One for All









One for All * The story comes to end


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セラピストの英田さんがくれたイギリスのリハビリ施設、そして竜崎先生からもらってきた手塚さんが現在リハビリに励んでいるドイツのリハビリ施設を比較して、私が選んだのは後者だった。

イギリスのリハビリ施設の質がドイツの施設に劣っていたからではない。
だた、母親が医師会長として運営理事を任されているイギリスの施設に行きたくなかっただけ。

英田さんはきっと、私があの女の娘であることを知っていた。送るなら母親がいる施設が良い、そう考えたんだろう。冗談じゃない。あの女性(ヒト)の半径1km以内での長期生活なんて身体は良くなっても私の精神が持つわけない。

リハビリ願書と契約書を自分で書けるところは記入済み。先日整形外科医の井出医師とセラピストの英田さんから私のカルテをコピーしたものをもらってきた。あとは保護者欄に兄のサインをもらうだけだ。



兄さんにも姉さんにも海外でのリハビリを考えていること、話していなかった。

だから書類をもってリビングに降りた時、柄にもなく緊張していた。どんな反応をされることか。もしかして「そんなお金の余裕ないよ。」なんてこともあり得るかもしれない。
そして「何で何も相談しなかったんだ。」って言われるのを恐くも思っていた。


早めに起きて、学校に出発する1時間前リビングへ降りると、仕事から返ってきたばかりの兄が、キッチンで就寝前のコーヒーを淹れていた。

彼が休みでない限り、家の中で顔を合わせることがない私達兄弟。彼が仕事から戻るのは太陽が昇りかける早朝、寝に入るのが6時ごろ。私は6時半に起きて、そして朝練に行く。仕事に出かける頃、私は部活が始まる時間。家に帰れば兄はもういない。

家族なのに、すれ違うばかりの兄弟だ。

普段は起きださない時間帯、リビングに姿を現した私を見て、彼はまず驚いた顔をした。

、今日大会だっけ?」
まずい、忘れてた。そう言いたげに目元を引きつらせる兄に笑う。姉さんに聞いた話、兄は私の大会に良く顔を出しているらしい。

『邪魔になるからって、あなたに声はかけないようにしてるわね。妹が大好きでその試合をどうしても見たいなんて・・・本当は恥ずかしくて言えないのよ。』
優はそう言って兄を笑った。
仕事で疲れているはずなのに見に来てくれているなんて、私は最近まで全然知らなかった。

「今日は大会じゃないよ。・・・あのさ。」

兄さんが私と姉さんを何よりも大事にしてくれていること、知ってる。

「どうした?」

だから、何も言わず勝手にリハビリを決めました、なんて兄知らずなことを言うのはやっぱり恐かった。

「これ。行きたいの。」

でも、彼に話さないと何も進まない。槙野先輩に近づけない。
そう思ったら自分の中に湧いてくる勇気。何て単純で自分勝手な人間になってしまったんだろうか。自分の目標の為になら何を犠牲にしても、傷つけても厭わない、そんな我儘な自分が嫌だった。

少し深めの呼吸をして、記入した契約書と井出先生の紹介状、そしてカルテを兄に差し出す。無言でそれを受け取った兄さんは不審そうに、私にその綺麗な瞳を向けた。



「・・・。」

コーヒーのカップを片手に立ったまま書面に目を通す兄の前で、突っ立った私は全身に冷汗を掻いていた。沈黙という圧力に、身体が縮こまる。

一秒を、信じられないくらい長く感じた。

カタリ、カップが大理石のサイドボードに置かれる高めの音が鳴って、カップの横に書類が置かれて、兄が私に向き合った。
スッっと手が伸びてきて、一瞬「殴られる!」そう目をギュっと瞑る。

覚悟した衝撃は来なかった。その代わり、左頬に大きな右手が置かれ、見上げた兄は切なそうな、嬉しそうな、でもどこか悲しそうな何とも表現しにくい顔で私を見ている。

「昔は何かあるごとに『兄さん、兄さん』『優、優』って言ってたがねえ・・・。知らないうちに自分で自分のこと決められるくらいに大きくなってたんだなと思ったら、嬉しいような、悲しいような。」

こんな情に満ちた会話はこの家ではとても珍しいことで、私は言葉を紡げない。

「優にはちゃんと話してやれよ。」

皮のカバンから印鑑を取りだした兄が保護者の記載欄に印を押す。
クシャリ、頭を撫でられたことで吹っ飛んでいった緊張感。重荷がなくなったことで、溜めていた自分への苛立ちが爆発して、目じりから流れる涙に拳を握りしめた。

何だかやるせなくて。

「ごめ・・・・。ごめんなさい。」

こんなに我儘な妹を、送りだしてくれる兄に申し訳なくて。

。」

止まらない涙を拭ったのは兄の手だった。

「Du hast entschieden, obwohl du weiss, dass deine Entscheidung deine Freunden und Familie verletzen mag. Menschen leben immer nur fuer sich. Wenn die Leute trotzdem fuer dich sagen, dass du machen sollst, was du willst, sollst du vor ihnen nicht weinen. Sag Danke, das ist was sie gluecklich macht, nicht wahr? (物事や他人を放ってでも自分のために決めたことだ。人間は我儘だよ。自分のためにしか生きられない。それでも、今回のことで傷つけることになる家族や部活の仲間がそれでもを送りだしてやりたい、そう思うならがするのは泣くことじゃない。「ありがとう」ってその人達に感謝することじゃないか?)」

普段はふざけてばかりの兄が、今の私に伝えるのは正論。

「Hoer auf zu weinen und gehe dein Gesicht waschen. Langsam wacht Yu auf. Wenn sie dich mit Traenen sieht, werde ich von ihr ergesclagen. (泣きやんで顔洗ってきな。目、腫れるよ。それにもうすぐ優が起きる。俺がを泣かせたなんて知れたらあいつの鉄パイプに半殺しにされる。)」

「Ja, Danke. (う、うん・・・。ありがとう兄さん。)」
「Was ist hierbei zu danken (いえいえ。)」


リビングのドアを開け、洗面所へ階段を上る。
その時、リビングに残った兄の桔梗が印鑑を押した書類を見つめ「...Wie kann ich sagen, dass sie nicht gehen lassen moechte. (行かせたくないなんて、言えるわけない。)」そう呟いたことを私は知らない。
















それは洗面所まであと2m。

「あら、おはよ・・・。」
「げッ、姉さん。」
「何で泣いてるの!?目真っ赤じゃない!?」
「え・・・違うのこれはっ!って・・・!ちょっと優!!!」

ものすごい勢いで一度自室に戻り、相棒の鉄パイプを持って閻魔様の形相で廊下を掛け抜ける姉に、妹は恐怖の身ぶるい。

「桔梗!!!!!あんた私の大切な妹に何したのよ!!!!!」

「兄さん逃げて!!!!!!!!」




















相沢優、8年前まで警察と兄を困らせた湘南レディース隊長。