「葵ちゃーん!ボールいくよー!」
「任せて歩美ちゃん!」
ポーン、ポーン、打球を返す音が聞こえる。昔良く聞いた、緩い打球を返したときに鳴る音だ。
ふと足を止め、音の方に目を細める。この街にあるテニスクラブの一つが所有するコート、その中で打ち合いをしている女の子が二人いた。
フェンス越しに見える小さな少女たち。その小さな身体には大きすぎるように見えるラケット。小さな身体でボールを追いかけて、追いかけて。
たとえラケットが届くことがなくても笑う彼女達。
自分にも今の彼女達のような時があった。そんなに昔のことじゃない。数年前まで私もこの少女たちと同じ、無我夢中でボールを追いかけては失敗するテニスが大好きな少女だった。ただ、ボールに追いつくことが楽しくて、ラケットを伸ばした先に黄色いボールが見えるのが嬉くて。転んだって、膝や肘を擦り剥いたって泣いたことなんて一度だってない。すぐに立ち上がって、またボールを追いかけて。
マリーに『今日はもう帰りましょう。』そう言われるのが嫌で、『いや!まだテニスするの!』そう駄々をこねては彼女を困らせる子だった。
「失敗」や「負傷」なんて言葉を恐がったことなんてなかった。
大きなテニスの大会で優勝するたびに私の名前は女子テニス界に広まっていった。
自分の名前と写真が雑誌に載って、雑誌の編集者が編集部に届いたというファンレターを持ってきたのは小学校5年生のとき。正直知らない人からの手紙やプレゼントを気持ち悪いと思ったし、理解できないとも思った。私は自分のためだけにテニスをしているのに何故他の人に期待されるんだろうって首を傾げた。
『がんばれよ。負けたらしょうちしねーぞ!』
『ちゃんなら絶対勝てるよ!』
『同じ学校にこんなに強い人が居るなんて心強いわ!』
『先輩、絶対一緒に優勝しましょうね。』
いつしか私のテニスは私のものだけじゃなくなっていた。
単に楽しいだけじゃ許されなくなっていた。
勝たなきゃいけない。負けちゃいけない。
他人の期待というのは時に重く肩に圧し掛かる。
「それでも私は自分のためにテニスがしたい。」
それは槙野先輩や幸村が勝つだけが目的のテニスじゃない。楽しいことが前提のテニス、その上におまけで勝ちがついてくれば最高な、そんなテニス。
立海大付属女子テニス部の部長として、この1年それを現実にしてきたつもりだ。私達の部活には流す汗があって、時には悔しさの涙があって、そして何よりも笑顔がある。
本当に立海に来れてよかったと、そう思う。
月ヶ丘にはなかった私の今。左腕を壊すことになったけれど、これは終わりじゃない。
月ヶ丘騒動が一区切りした、次の試練なんだろう。
pppp・・・
カバンの中で鳴る携帯電話。大方掛けてきたのが真田か琴音だということは予想がついていた。私に電話してくる人間は多くない。
研究が一段落したマリーは卒論に追われ夜まで図書館に篭りきりだし、この時間じゃ兄さんはまだ寝てる。テニス部のメンバーとはメールでやりとりすることがほとんどだ。
ディスプレイには真田弦一郎の文字。
テニスコートのフェンス前で止めていた足を動かす。
着信は僅か3コールで切れ私を驚かせた。
『あと10分で着く』
メールを打って送信する。約束の時間は15時、早く来すぎたとテニス少女達を見ていたのにどうやら男子テニス部員達は私よりもはるかに早く着いていたらしい。
関東大会を来月控え、優勝を誓うため、今日男子テニス部はレギュラーが全員で幸村を訪問している。『女子も宣誓しようぜい!』そう誘ってきたのは丸井だった。
『絶対的な優勝は宣誓はしないけど、優勝のために努力を惜しまないことは宣誓してもいい。』
正直、今更幸村に宣誓するようなことじゃないけれど、今日ついてきたのはそれを口実にただ顔が見たかっただけなのだ。
「・・・走るか。」
見上げた空はぐずつき始めた。
緩いボールを返す音が遠くなっていく。
幸村の病室は一度移され今は神経内科病棟の4階にある。個室が多いこの病棟の見慣れたこと。此処への出入りが常連化してしまった今、足は何を考えるもなく自然と行くべき道を知っていた。数分で真っ暗な雲に追われた空から、雨が降り出した。病院の窓から見える外の様子はもはや土砂降り。間一髪、濡れずに済んだ。
(あれは・・・。)
目的の病室があるその目の前に立ち尽くす見慣れた男達。彼らが幸村の病室に向き合いただ呆然と立っている。
まるで、一歩前に出ることを拒否するかのようにただ、その場に。
「何してんの。真田は?」
彼らから5mほど離れたところで足を止めて、声をかける。廊下に立ちすくむその姿はもはや不審人物の集団の様。
私の声に反応して真っ先に私に顔を向けたのはキリハラ君だった。目に涙を溜めて、歯を食いしばって。
ギョッとした。
「ぜんばい・・・。ぶちょ、部長が・・・。」
私は人間の感情には疎いけれど、幸村に何かあったことくらいその表情ですぐに分かった。
「・・・幸村?」
閉ざされた病室の扉に目をやる。
まさか死んだんじゃ・・・、最悪な光景を想像すると体が沸騰しそうに熱くなって、私は残りの5m無我夢中で男子部員を突き飛ばして扉に向かっていた。
「待つんじゃ。」
仁王にグッと右肩を掴まれ、突進していたからだが戻される。想像しなかった動きに背中から地面に倒れそうに視界が後ろへ下がっていく。
そして支えられる。私の両肩を掴んでいたのは慎重な面持ちの柳。二人は揃って目を伏せるように顔を曇らせた。
「真田は頭を冷やしに出てる。今の幸村に向き合うのはいくらのお前でもキツイと思うぜよ。」
仁王の言葉には同感だった。
それでも、今の精市を治められる人間がいるならそれはではないかと期待する自分がいた。
「医師がもうテニスはできないと内で話しているのを聞いてしまったらしいんだ。」
信じられない、と瞳を大きくする。俺が言った言葉の意味を必死で理解しようとしている表情が見て取れる。
「・・・テニスが、できない?幸村、が?」
手に負えない人間。それは今の精市のことを言うのだとおもう。
手に負えない。自分がなんと言葉をかけるべきなのか分からないから。
信念、時間、全てをテニスに費やしてきた精市にとって、またコートで競技をするということは現在抱える重い病を治す糧となっていた。その意欲と希望が、医師の内談によってボロボロに壊された。
宣誓をするため訪れた病室では、テニスのために体を治そうと、今まで気丈に保たれてきた精神がガラスのように壊れていた。
「今はそっとしておくべきなのかもしれない。」
精市が持っていない健康な身体を持つ俺たちが何をどう説得しても、今は分かってもらえない。・・・いや、この騒動が治まれば分かってもらえるという考えが甘いのだ。健康な俺たちには精市が抱える闇の大きさなど分からない。どれだけ深い闇かも知らずに光を届けようなど、所詮甘い考えだ。
励ましの言葉など、ただの同情にしか聞こえない。
「・・・。」
が見つめる扉の先には、闇に包まれた幸村がいる。
「放っておけるわけない。どん底に突き落とされたまま、そこに置いておくなんて。」
力強い、一言。彼女が見せるこの感情の名前は同情じゃない、
華奢だけど大きな背中。誰もが彼女の後ろ姿に目を細め、願った。
どうか、助けて。
信じる、
なら必ず幸村を救い出してくれる。
本来ならば自分達部員が行動しなければならない場面、こんなことまで彼女に任せてしまうなんて不甲斐無さは拭いきれない。だが、彼女以上の適任がこの中にいないことは事実だ。
そしてまた、彼女を頼り期待してしまう俺たちがいる。
女子テニス部だけじゃない。という人間が、男子テニス部にとってどれだけ大きな存在となっていたか。
それを誰もが確認した瞬間。
「精市を頼む、。」
助けてくれ。
助けて