病室に光を齎しているのは窓の外にある明るさ。明る過ぎず、暗すぎず。ベッド、サイドボード、クローゼットも窓も花瓶もいつもと同じ場所にあるのに部屋の中の様子が違う。
凍り付いている雰囲気。触れたら一瞬で皹が刻まれてしまいそうな空気。足を踏み入れ、肌に感じる緊張感に野生的な勘で思わず後ずさりしたくなる。グッと拳を握って『逃げちゃダメ』と自分に言いきかせ、その場に竦む足を無理やり一歩前に踏み出す。この部屋の重い空気を作り出した人物はいつものようにベッドの上にいる。片手を額に当て、まるで自分を何とか落ち着かせようとしているように。額の手は震えていて今にも崩れてしまいそうに脆く弱弱しい。
いっそのこと病室が真っ暗ならよかった。太陽なんて月の後ろに隠れてしまえばいい。
そうすれば、私はこんな彼の表情を見なくて済んだのに。
「・・・何しにきたんだ。」
私の姿に気づいた幸村の手が額からゆっくり離れていく。部屋の空気よりも冷たい、零下の底の底から発せられたかのような声が紡がれる。まるで悲鳴のようなその言葉を発した人物から視線を外してしまいたい衝動に駆られ、キュッと口元を結び下唇を噛み耐えた。
「聞いたんだろ、俺はもうテニスができない人間なんだって。」
「帰ってくれ。君も、部員も・・・!!イライラする。」
「もう俺に構うな!早く帰れ!!!」
初めて聞いた幸村が怒鳴る声。初めて見た内に溜まりに溜まった怒りを爆発させる光景。穏やかな人間だと、強い人間だと思っていた。意志の強い彼を造っていたのは、またテニスをしたいという願いだけだった。きっと心の中では悩みを抱えていて、私達テニス部関係者に心配をかけないように気丈に振舞っているのだろうと本当は分かっていた。
分かっていたけど私は彼を強い人間だと決め付けて、この男性(ヒト)なら大丈夫なんて都合の良い考えばかり持っていた。幸村は絶対元気になって帰ってくると思うこと自体が負担になっていたなんてことも知らないで。
「君達には分からないさ・・・・テニスができる君は!!!!」
「同情なんてごめんだ!」
「こんな身体ッなんて無くなればいい!!」
今身体をベッドヘッドに打ち付ける幸村の精神は壊れている。
止めて。
「こんなガラクタ!!!!」
バンバンと大きな音を立てる目の前の人物が作る振動が、サイドボードに立っている花瓶を転がす。藍が綺麗な色の花瓶だね、といつか話した花瓶がゴロゴロと廻って、
ガシャン。
落ちた花瓶が割れる音。見事に砕けた藍のガラスから水が散る。まるで花瓶が泣いているように、涙のように床を伝い流れていった。そして綺麗に飾ってあった彼の大好きな花達が落ちた瞬間に花びらを散らして、ガラスに塗れる。
止めて。
「俺なんてもうこの先、生きていく意味もないッ!!!!!!」
「こんなガラクタの身体を背負って生きるくらいなら・・・」
止めて。
「消えたほうがましだ!!」
消えたほうが
消えたほうが
消える・・・
一瞬真っ白になった思考。膝から崩れてしまいそうに脱力して、揺らいだ体を壁に思い切りぶつけた。ガタン、と大きな音を鳴らしぶつけた肩は痛くない。両手で肘を抱えて、大声を上げて泣いてしまいたかった。
心が痛くて。
心臓の動悸が激しくなっていく。
自分の左腕を伸ばす。これが最後でもいいからどうか届いて、とそれだけを願って。ベッドに蹲る彼の右手を取って握る。相変わらず力は入らないけれど、今の弱い幸村を掴むには充分だ。
「・・・止めて。」
右手は上気した彼の頬に添えた。完全な無意識。私の本能だけが今の自分を動かしていた。抱きしめたくて、触れたくて、守りたくてどうしようもない。
親指が頬を撫で、まるでくっ付いてしまいそうな距離に私と幸村の顔がある。鼻先をくっ付けて、唇が触れそうなギリギリの距離で目を閉じれば涙が頬を伝い落下した。
「お願いだから・・・。」
私のことを怒ってもいい、テニスができないことを嘆いてもいい。この先にある将来を悲観したっていい。だけど、
「私の大切な人に、」
泣いているのは自分だ。声にする言葉が、震えている。
次々と止まることなく頬を伝い始めた涙に、目の前の彼が瞳を大きくした。
「私の好きな人に、」
そう、誰よりも大切な存在になった。
一番近くにいてほしい、そう思える存在になった、
「『幸村』に消えてしまえばいいなんて言わないで。」
こんなにも好きにさせておいて、
「お願いだから・・・・。」
テニスができないからじゃあサヨナラなんて酷い話じゃないか。
「私が好きになったのは、テニスをするだけのあなたじゃないのに。」
4つの目が、向かい合う2つを見つめ離れない。
私の言葉は彼の心に響くのだろうか。
分からないけれど、さっきまで存在していた荒くれた彼は姿を消し、病室にいつもの静けさが訪れた。
病室のドアが開けられる、その時まで。
「ちょっと幸村君!!何か割れる音がしたけど!!!ってあれ・・・。もしかして取り込み中だった?」
バンッと大きな音を鳴らし扉を開けたのは看護士の女性。彼女はまず私の姿を見つけ、不味いと手で口元を覆った。
「うわー!ごめんね!何かあったのかと思って!」
慌てて制服の添え口で涙を拭って幸村とのコンタクトを解除する。上がり込んだベッドから飛び降り、気まずそうな表情を見せる看護士に一礼。
「・・・用は済んだので帰ります。」
背中には幸村の視線。気づいていたけど振り向かなかった。
振り向いたら、きっとまた抱きしめたくなってしまう気がしたんだ。
これは私の戦いじゃない。彼が自分で立ち向かわないと何も解決しない問題。私とそしてドアの前で彼を待ち続ける彼らに出来ることは少し背中を押してあげること。皮肉にも、悲しくもそれ以外になにもない。
「ちょっとどうしたのこれ、花瓶割れてるじゃない!」
パタンと閉めたドアの中からさっきの看護士が叫ぶ声。
「、ありがとう。」
そして目の前からはありがとうの言葉。きっと、私と幸村のやり取りを盗み聞きしていたのであろう男子レギュラー陣は少し落ち着きを取り戻した幸村の様子に安堵の一息を吐いている。目に溜まった最後の涙を拭って、小さく溜息を吐いた。
久しぶりに幸村をあんなに近くに感じた。
温もり、息遣い、全てが愛しくて胸が苦しいなんてなんてことだろう。
「私、顔赤い?」
「ほんのり桃色じゃな。いつも不健康に白いんだ、丁度いいじゃろ。ピヨ。」
「みんな自分の心を休ませて上げて。今日は練習せずにまっすぐ家に帰ること。いいよね真田。」
「ああ。」
部員も精神的に大きな負荷を背負っている。良くも悪くも、男子テニス部の近未来に試練が残っていることに変わりはない。今はただ、幸村の心が立ち直ってくれることに賭けるしか。
「プレイヤーでいられなくても、部長に相応しいのは幸村部長だけっすよ。」
一度背負った部長という名前を持つ以上、尊敬して待つ後輩のために彼には立ち直る義務がある。
私はこれ以上幸村の力になるのは無理だけど。
もっともっと幸村の力になってくれるかもしれない女性がいる。
今まで拒んでいた。弱いところを見せるのが嫌で、ずっと拒否していた。彼女は最終手段。最後の秘密兵器だ。
制服のポケットに入れた携帯電話を取り出して、滅多に画面に出さないコンタクトデータを呼び出した。小さな溜息の後に押した発信ボタン。耳に当てた携帯から響く呼び出しのコール。
ppppp・・・
相手がなかなか応答しないのはいつものこと。
でも、私が掛けた電話に出なかったことは一度もない。
『おー、。お前から掛けてくるなんて珍しい。どした?』
ほら、やっぱり出た。嬉しそうに話しかけてくる相手は地球の裏側にいる。耳に受話器を当てながらランニングでもしているんだろうか。何となくだけど、彼女が晴天下走っているような気がした。
「槙野先輩、折り入ってお願いが。」
『頼み?まさかクソガキ関係の話じゃないだろうな。』
「景呉嫌いは相変わらずですね。」
『当たり前。こればかりは一生変わらないな。ほッんと、東條があいつにホレた理由が全く分からね。それより頼みって?言ってみな。』
ゴクリ。
生唾を飲み込んで語る今までの事と私の願い。
先輩は私が話し終わるまでウンともスンとも言わず黙りこくり耳を傾け続けた。
「どうか、お願いします。」
ドイツにいる本人に向かって頭を下げる。いきなり上半身を下げた私を通り過ぎる人は何事だと視線を向ける。視界には自分の靴。
もうこれしかないんだ。私が幸村にしてあげられること。
『・・・こっちの手配はやっとくよ。でも本人にはお前が連絡しろよ。』
長かった沈黙にやっぱりダメかと諦めかけたけれど、最後に彼女はケラケラと笑ってそう言ったから、期待して良いということなのだろう。
「あ、ありがとうございます。先輩!!」
『おう。うまくやれよ。じゃあな。』
受話器の先でプープーと音が鳴るのを確認して降ろした電話。幸村を治せる可能性が現実味を帯びてきた。
これであと、説得しなければならないのはあと一人。