夕日が消えうせたと同時に街に差し込んできた闇に、人は灯りを用って対抗する。今日もまた、色とりどりの光りが灯る駅前には仕事帰りのサラリーマンや塾通いの学生の往来が絶えない。
賑やかなそこを通り過ぎ、古びた小道を一本入ればそこはまるで別世界。最先端技術を屈指した大型パネルに映し出されるCMが輝く駅前の風景をまるで数十年前に巻き戻したかのような風景が小道の先にはある。
時間に置き去りにされてしまったそこには古びた居酒屋が軒を連ねる。次にある程度大きな地震が来た時には間違いなく崩壊してしまいそうな木造建築のおでん屋、店頭にパイプ椅子を出して、まるで置物の様に座って動かないお好み焼屋の女将。いつ来ても変わることのない風景。
唯一変わることと言えば、ここに身を置く人間が歳を取っていくこと、それだけだ。
大学時代、初めて俺を此処に連れて来てくれたのはビーチサッカー同好会の先輩。井出先輩は医学部でイケメンとして大学の後輩の間では密かに有名な人だった。整形外科の分野で名を上げ、隣町に専門医院を築きそこの大ボスになった。
大学では経済学を修め一度は企業に勤めた俺だったが、趣味だったビーチサッカーの情熱をきっかけに理学療法に転向。その後理学療法の資格を持つスポーツトレーナーになり、狭き途を諦めず進んで日本代表チームからも声を掛けられるようになった。
先日、勤め先のスポーツリハ専門医院に中学女子テニス界で『レッドローズ』と呼ばれる子がやってきた。彼女が持ってきた紹介状には井出先輩のサインがあって、同封されていた簡易カルテには彼女の怪我の施術歴や現在の骨と筋肉の状態をまとめたクリニカルテストの評価、そしてその紙束の一番上に、小さなメモがクリップで留められていた。
『の娘だ』
走り書きで書かれた内容に驚いて顔を上げれば、確かにあの先輩に似た顔を持つ少女が首を傾げたのだった。
「英田、こっちだこっち。」
旨い海鮮料理を食べさせてくれる行きつけの店に入ると、すでに席を確保していた井出先輩が「おーい。」と手を上げ合図する。約束の時間までまだ15分ある。遅刻というわけではなさそうだ。
相変わらず約束の時間の30分前行動を心がけている先輩に一度笑いかければ、彼は気を効かせて店の店員に俺のビールを注文した。
「お忙しいところ呼び出してしまってすみません。」
「気にするな。最近じゃ誘ってくれる飲み仲間も減って退屈していたところだ。」
「ってか相変わらず早いですね先輩。30分前行動は健在ですか。」
「はっはは。医者としては良い心がけだろう?医院のナースは涙ものだぞ。」
お通しと一緒に運ばれてきたビールで乾杯をして少し世間話をした。最近怪我をした有名な野球選手の話や先日亡くなった大学の恩師の話。
最初のビールが空になったところで皿の上でまだ反射で動く伊勢海老の髭を目に映しながら、持ってきた書類を井出先輩に渡した。本来なら患者情報は極秘事項、だが先輩は俺に彼女の治療を任せた張本人、現在の状況を知っておくべき人物だ。
「ちゃんのリハビリ成果は思わしくないようだな。」
負傷した左腕の筋力、EKG測定などの結果が一覧にされた紙に目を通す先輩の表情は硬い。
「持久力、それに肩までの神筋コーディネーション等の異常はありませんが上腕から肘下は薬指と小指に向かって操作能力が落ちています。」
「ウルナか・・・。」
「はい。打撃を受けた際やはり骨の破片に傷つけられたのかと。」
「MRIでの検像はネガティブだったが小指に症状が見られているならウルナに間違いないだろうな。ラケットは握れてる?」
「とても全力で打球を返せる握力ではありません。相手の打球の強さにもよりますが、全国大会レベルの選手と当たればラケットを弾かれてもおかしくない。」
「ふむ。」
先輩は考える姿勢をとって、紙を俺に返した。
「ドイツやスイスのスポーツ医院は世界的に有名なリハビリ施設も整えていますし、将来の事を考えてもお母さんのいるヨーロッパに送るべきでは?」
「そうだな。問題があると言えば、ちゃんが頷かない可能性があるということかな。」
「全国大会ですか?」
「彼女が立海大付属女子テニス部の部長である話は知ってるよな?」
「はい。」
「此処だけの話、知り合いの医者から聞いたんだが男子テニス部の部長も疾患でダウンしているらしい。」
「男子テニス部のトップって幸村とかいう・・・。」
「そう。神奈川のスポーツ界ではテニスを超えて有名な存在だ。彼がいなくなった部を支えているのが仲間である男子テニス部員と、そしてちゃん。」
「もしかして幸村君の疾患って神経内科系ですか?」
「おお、よく知ってるな。」
「彼女を始めて担当した時、神経系疾患のリハビリ過程について聞かれたんです。そうか、彼女が気にかけていたのは幸村君だったんだ。」
「なんだ。あのキツネ顔の青年が彼氏じゃなかったのか。これはに不味い報告をしてしまった。」
「何の話です?」
「・・・いや。何でもない。それにしても、その幸村という選手。」
新しく運ばれてきたビールに手を伸ばす井出先輩が目を下に向け、ぽつりと漏らした。
「自分も大変な怪我をしているというのに、それを忘れて気にかけてしまう程彼女にとって大切な人なんだろうね。」
あの無関心少女が大人になったもんだ。
井出先輩は最後にそんなことを言った。
俺の大学時代はビーチサッカーに満たされていた。チームメイトとして知り合った医学部の井出先輩、そしてチームのマネージャーだったのが、先輩。井出先輩と先輩は幼馴染で高校は別の学校に通っていたが大学で同じ学部の学生として再会したらしい。
この先輩2人が俺の大学生活にどれだけの影響をもたらしたか、それは簡単に言葉でまとめられないほどに大きい。
『死ぬ気で勉強したからこその医者よ。』
最後に先輩に会ったのはもう20年近く前。確か長女が生まれる少し前、俺が理学療法に転向した時だった。彼女が海外でスポーツ医として有名になりだした丁度その頃。
『怪我する選手をバンバン引き取って、ジャンジャン治すの!またフィールドでバシバシ打ち込めるようにネ!』
彼女が医者であることの理想を掲げていた若かりし頃。
時間が過ぎて行く中で、その理想が離れて行ってしまったことは取材インタビューや彼女が書く海外スポーツ紙のコラムで感じることができる。
「あの先輩の娘さんが、今理想としているのは全国大会の優勝か。」
お母さんの理想が叶わなかった分、娘が掲げている理想が叶えばいい。そう思うけれど、現実は甘くない。全国大会終了は8月末。有効的なリハビリ開始を2カ月待つのは長すぎる。
残酷な決断を突き付けるのは、彼女のトレーナーである俺の仕事だ。
カチリ。
自宅のベランダで久しぶりに煙草に火を付けた。
自分の選手生命と目の前にあるチームのための全国大会。若い彼女はどちらを取るのか、煙を吹かし月のない空の闇に眼を向けて考えても答えは出ない。
出てくる物と言えばそれは先輩、あの女性(ヒト)と共有したもう何十年も前の記憶だけだった。
人間の繋がりはいつだって偶然に