地区予選が終盤を終えた5月中旬。
残っている2試合を落したとしても現段階で立海大女子テニス部の関東大会出場は確定している。公の場にギプスを付け姿を見せることで、周囲に騒がれることは絶対に嫌だった。知り合いが知り合いを通じて、私の状況を幸村が知ってしまうことを恐れていた。
だから今まで行われた試合には、長妻先生にベンチコーチを務めてもらうようにお願いしていた。
昨年の秋ごろから女子テニス部の練習に出てくるようになった長妻先生。現在の年齢であのテニスの動きを見せる先生に、プロであったことを確証付ける面影が残っていた。一番驚いたのは他でもない、先生を名ばかりの顧問と呼んできた琴音を始めとする部員達。
そして地区大会が始まり、ベンチコーチに座っている時は彼の空気が違うのだと皆が口を揃えて言う。彼らは知らなかった、先生がプロだったこと。
言いたがらない先生は控えめな人物だ。もっと早く公にしていたらもっとその存在に威厳が出ていただろうに。
次の試合で、私は先生とベンチコーチを交代する。自分の試合の時は、部員ではなく長妻先生にベンチに座ってもらいたいな、そんなことを思えば頬が緩んだ。
やっと外れたギプスに、安堵のため息を漏らす。
ギプスなしの学校登校がこれほど軽やかなものだったとは、ビックリ。
「痛みは?」
「いや、痛みはない。」
春希と並び学校の正門への道をひたすら歩く。心配性な彼女は負傷して以来『の荷物は私が運ぶ』と言い張って聞かない。彼女にカバンやラケットバックを無理やり奪われたせいで、この数週間私は毎日手ぶらで歩いていた。『筋トレになるから。』そんな理由をつけては私の手伝いをしようとするテニス仲間であり、クラスメイトであり、友達の春希の優しさに毎日お礼を言った。
「春希。もうギプスも取れたし今日からは自分で持つから。ほら、筋トレになるじゃない?」
彼女が使ったのと同じ理由をつければ彼女が渋々と頷いた。
「幸村と連絡は取ってるのか?」
「取ってる。週2で電話もしてたし。昨日は青学からお見舞いがあったんだって。」
「青学?ああ・・・。アメリカから来日したルーキーが入ったって学校か。」
私の知らない情報に、進んでいた足が止まった。
「ルーキー?」
「確か越前って名前だった気がする。」
「越前・・・。越前リョウマ?全米ジュニアで優勝した子かな。」
へぇ、日本に来てるの。
あったことはないのに、何となく感じた親近感。知る人間には有名な人物だ。あの越前南次郎と同じ苗字を持つ若い天才。彼の全米ジュニア決勝はテレビの中継で見た。トーナメント表が上手くできていたのか、集まった選手のレベルがたまたま低い年だったのか、決勝の試合は大したものじゃなかった記憶がある。
あの子の才能を殺すも生かすも、それは青学のテニス部とそれを率いる手塚さんにある。
「急ごう、。遅刻する。」
「了解。」
風になびいた紙を左手で後ろに送ってダッシュの体制に身体を落した。
ギプスが外れても、左手の違和感が消えない。
様子を見よう。慌てるな、そう自制する冷静な心。
そしてその反対で「何かおかしい。」「いつもと違う。」そう慌てる焦った心が共存していた。
「・・・こんにちは。」
私が幸村を訪ねたのはその週末、ノックをすると「どうぞ。」久しぶりに聞いた声に、ドアノブに掛けた手が震えた。
そして踏み入れた病室は2人の来客に見舞われていた。
「久しぶりだな。」
こちらを見る、相変わらず笑っていない瞳を見せる手塚さんと、
「こんにちは。」
ニッコリ笑い、手を差し出す猫目の男性。握手を返し、不味いところに来てしまったと少し後悔をしながら、ゆっくりベッドに腰掛ける人物に目を映す。
少し痩せたように見える幸村が微笑む。それは微笑みなのだけど、少し苦そうで切なそうな笑みだった。
彼が口元だけを動かす。声を出さず、他の2人には見えない様に。『会いたかった。』彼は確かにそう言った。
「レッドローズ、噂通りの美人だ。ね?」
猫目の彼が私ではなく幸村に同意を求めるように言う。
「ふふ、不二それは本人に言ってあげないと。」
ダメだなぁ、と幸村が笑う。
幸村と親しい関係にあるように見える青学の2人。それはちょっと意外だった。幸村は一匹狼みたいなところがあるし、他校の学生と深い交流関係を築く人ではないと思っていたのだ。
「意外だって顔してるね、。」
久しぶりに名前を呼ばれて嬉しかった。そして彼の人の様子を読む洞察力は健在だ。
「手塚とも、不二とも付き合いは長いんだ。もっとも部活の情報を漏らすようなことは絶対にない。完璧なプライベートだよ。」
なるほど、部活の話はご法度ということか。それを汲み取って、不二と呼ばれた男の子の隣に席を取る。カウンター技で有名なあの天才不二周助。映像で見たことのある彼とは違う。こんなにも優しい雰囲気を持つ青年だったのか。
「ドリンクを買いに行ってくる。」
立ち上がる手塚さんに、私も同行しますと席を立った。丁度コーヒーが欲しいと思っていたんだ。
「幸村と不二さんは何が良い?」
「何でもいいよ。」
「僕も任せていいかな?」
「了解です。」
ドアを開けた状態で待っていてくれた手塚さんの半歩後ろを行く。地面を見て幸村はスポーツドリンクにしても、不二さんは何が良いのだろうと悶々と考えていた。
「わっ・・・。」
立ち止まっていた手塚さんに気付かず、思い切り額を彼の背中にぶつけてしまった。
「ごめんなさい。ボーっとしてました。」
「敬語は使わなくていい。同い年だろう?」
そうは見えないけど、そうですね。
言葉に出さず心で思う。これは言ったら失礼に値する。
「大丈夫なのか?」
彼が立ち止まって、私に視線を向けた理由が明かされる。その視線は斜め下に向けられていた。
「左腕を負傷しているのだろう?」
青学にはバレていたのか。ということはまさか幸村にも・・・。
そんな考えが顔に出ていたのか、手塚さんはじっと私を見て「心配するな。」そう一言告げた。
「真田に口止めをされたから俺も不二も幸村には言っていない。」
「・・・そうですか。」
安堵した自分がいた。真田もやれば出来るじゃないか、そんな風に滅多に褒めない幼馴染に拍手を送る。
「俺は来週からリハビリでドイツに行く。」
さぁ、と窓から吹き込む風に髪が揺れた。そうだ、手塚国光の壊れた左肘。どうやってその事件が起こったのか、聞いただけだけどそういえば自分と境遇が似ているな、そんなことに今気づいた。
「気をつけろ、左腕を庇うような体勢を取る癖が付いてる。」
え、と顔を上げれば心配そうな顔で私を除く手塚さんがいた。眉間に皺をよせ、目元を少し落としている。
「あいつ(幸村)は勘が良いからな。」
そしてまた歩き出す彼の背中を凝視して、右手でギプスの無い左腕を抑えた。
自身が体験して、負傷の状況が分かる人間には全てお見通しか。
風が、止まない。
窓の外で揺れる木々に目を細め、ドリンクオーダーを変更しよう。そんな考えに至った。
「遅かったね二人とも。」
「手塚まさかに手、出してないだろうね?」
後者が空気の圧力で虐待するかのように、手塚さんを見て黒い笑みを浮かべた。
「い、いや。それはない。」
「すみません、どれがいいか迷ってしまって。はい、これは不二さんに。」
「いちごミルク?」
「あはは、不二にばななミルクって買ってきたのはきっとが初めてだよ。」
「幸村にはこれね。」
「・・・これ?」
「ふふ。幸村精市にこのドリンクを選んだのもさんが初めてだと思うよ?」
「ああ、初めてだ。」
「気分転換に普段は飲まないものにしようかなって。ほら、私も今日はコーヒーじゃなくてラーメン缶。」
「ラーメン缶!?」
「がラーメン!?明日は雪が降るかもしれないね。」
ハモリ、笑いだした2人に私は微笑む。手塚さんも、手には緑茶ではなくレモンサイダーを握り呆れたように笑った。
「じゃぁ、手塚の旅立ちに乾杯。」
缶の蓋を開けた幸村の音頭に全員がドリンクを掲げ、続いた。
その後、幸村の手に握られた暖かいカレーリゾットの缶。
固形物のラーメンはともかく。このカレーリゾットはドリンクなのかそれとも食事に値するものなのか、そんな議論と討論が立海の部長達、そして青学を率いる2人の間で1時間に渡り交わされた土曜日の午前中であった。
会いたかった、本当は声で伝えたい