「これがレントゲンの画像。この白い砕けているのが上腕骨の一部だね。粉砕骨折だ。」
「治るのにどれらいかかりますか?」
「個人差があるけれど骨がある程度もどるのに約2ヶ月。その間はもちろんテニス禁止だ。その後にリハビリがやはり2,3ヶ月。」
言葉を失っていた私。冷静な柳が医師に尋ねた質問の答えを聞きたくなかった。5ヵ月という計算に思考が更に落下していく。振り返り、背後に立つ柳に「大丈夫だ」と檄を入れてもらいたい気持ちはあったけれど、振り向くことが出来なかった。彼が今、どんな顔をしているのか見たくなかった。
夏の全国大会は5ヶ月後に控えている。
骨の再生とリハビリに5ヵ月かかるということは、
全国大会を諦めるということだ。
「手術室の予約が取れ次第遅くても1週間以内に手術に掛かるから桔梗君と学校に伝えるように。今日はギプスで固定しよう。手術の予定についていつでも連絡が取れるようにしておいてね。」
「・・・はい。」
白い右手と対照的に赤い左腕。それはリンパ水が溜まっておかしいくらい膨張している。血管が切れて血液が組織に流れ込む血腫が酷い。その皮膚の上から着々と取り付けられていくギプス。手の感覚は中指から小指に向かうにつれて薄い。
席を外していた真田と教務室から教員が駆けつけ、騒ぎが収集する前に学校を後にした私は柳に付き添われて小さい頃からお世話になっている整形外科医の井出医師(せんせい)の病院に来た。
休診日だったところ、無理を承知で電話をして症状を話せば「すぐに来なさい。」そう迷わず診療所を開けてくれた。
「君のお母さんが見たら発狂していただろうね。」
「完治するまで母には言わないでください。」
「保護者は桔梗君だ。患者に言うなと言われれば他の人間には黙っているよ。守秘義務があるから。はい、完成!」
いつもニコニコしているのがこの井出医師のチャーミングポイント。でも、今日はあまり笑顔を見せてはくれなかった。厳しい視線で怪我した箇所を見る医師の表情は険しいものだった。
「君のような有能なプレイヤーがまさか自ら怪我をするような真似をするなんて、お母さんには間違っても聞かせられないな。今はドイツでハンドボールのナショナルチームを診ているようだね。国際的に有名なスポーツジャーナルで彼女の特集が組まれているのを見たよ。」
あの女がいつ何処にいるのかなんて興味がない。
あからさまに「嫌」という感情が出ていたのか、私の顔を見た医師が話題を変えに掛かる。家の母と二女の険悪な関係は家に近しい人間には有名な話だ。最も、子供の方が母親を一方的に拒否しているだけで、大人から見れば思春期の難しい感情とでも言うのだろう。
「それよりちゃん、そっちの彼はもしかして彼氏かい?」
私の背後に立つ柳を見て医師がようやく笑ってくれる。反応を示さないでボケっとしていたら「そうかい、そうかい!おめでとう!」そう右手の握手を求められた。
完全に勘違いしている医師は一人で楽しそうだ。でも、そんな外れた雰囲気に救われた。
医師にまでこれ以上悲しい顔をされていたら私と柳、2人そろって目の前にある悲観的なテニス部の現実に潰されていたはずだから。
「柳、このこと幸村には・・・。」
会話のない帰り途、目を伏せ、話を切り出した私は何故だか冷や汗を掻いていた。柳の温和な雰囲気が全くと言っていいほど感じられない。ピリピリした空気に、今だ険しい表情の柳が拳を握っているのを目にした。
「なぜ自分を犠牲にしたんだ。」
彼のこんな声色を聞いたのは初めてだった。
言葉を選ぶ。彼に下手な言い訳をしたところで、きっと全部見透かされるだろう。
「・・・守りたかった。」
変な話、降ってくるラケットが怖いとか、喧嘩相手の男の顔が気持ち悪いとか、ましてや怪我をして骨折する可能性の考慮とか、そんなことあの瞬間、一瞬でも脳裏を過ることはなかった。
ラケットが降ろされる刹那、私が想ったのは幸村だった。
「幸村の部活を守りたかった。」
言葉にしたと同時に目が熱くなって、涙が流れる。
これ以上、彼の部活を不利な状況にしたくない。たくさんの視線を背負って部長代理を勤めようと必死になっている真田にも、部長不在を考慮に練習メニューと毎日睨めっこしている柳にもこれ以上苦しんで欲しくなかった。
守りたいなんて出過ぎている。どれだけ自分を過信しているのか、自嘲したくなる。結果的に、自分が怪我をして今柳に辛い顔をさせているじゃないか。真田や琴音がこの腕を見て、悲しむことも分かっている。男子テニス部の騒動に私を巻き込んでしまったと、真田は自己責任のなさを感じてしまうかもしれない。出しゃばったのは私で、彼にその責任はないと説得してもきっと聞いてもらえない。
変わらない事実、それは出しゃばった行為の代償に払ったのはレッドローズの左腕だということだ。
学校が今回あった部員同士の不和について公表することはないと願いたい。トッププレーヤー(幸村)が病にかかったという事実にメディアから集まる注目に手を焼いていたのは学校の先生達も同じだ。その上レッドローズまで負傷したことが知られれば、メディアの注目は熱を増してしまう。
何事もなく片付けられていく。
腕の一本で済んだんだ、安いものじゃないか。
だから、泣くな。自分に言い聞かせる。
私の家まで歩く間、柳はそれ以上言葉を口にしなかった。
沈黙を恐いと思うことはなく、ただ夕焼けが差す誰もいない歩道を4つのローファーが音を立てては消える。
本当に恐いのは、この沈黙じゃなくて近未来。
女子のレギュラーは来週もきっと集まらないだろうから、明日から五日は部活を自主練に切り替えよう。再来週、流行り病に罹っている女子テニス部のレギュラーが帰ってきた時、彼女達は自己のことしか考えず、全国優勝という目標を蔑ろにした私を責めるだろう。
私の腕を見た彼女達の表情を想像すれば、それはすぐにでも目を瞑りたくなった。