大きな病院なのにエントランスに警備員しかいないとても静かな空間で、私達は外来の患者が待ち合いに使う長い椅子に腰を掛けている。20分前、おかしな様子を見せ始めたが電話をした相手も、そして話している内容も私には分からなかった。精市が『ドイツ語だったからきっと家族に電話したんだと思う。』そう言った。その数分後には彼の携帯に電話があって、さんのお兄さんが今から迎えに行くと言ったという。
このまま寝かせるのは不味いだろうと、彼女が倒れてすぐに精市がお世話になっている医者を呼びに行った。
『今流行りのインフルエンザかもしれないね。』
そう言った医者が入院患者用の布団を持ってきてくれたけれど、ちゃんとした診察は明日にならないとできないと薬はくれなかった。布団の下で震える彼女は一向に目を覚まさない。
さんのすぐ傍に座って、クリーム色の長い髪を撫でる精市は何も言わない。ずっと、彼女に長い睫毛を落している。外ではいきなり降りだした雪がサンサンと地面に向かって降りている。神奈川で雪なんて、しかも今年がホワイトクリスマスだなんて、もうこの先10年はきっとない。
「こんな体調なのに来るなんて、よほどあなたに会いたかったのね。」
自分の気持ちには素直な子じゃない、そう思っていた。だから、私が精市を自分のモノにできる可能性があるならそこに漬け込むしかないと思っていたのにまるで計画が丸崩れ。来るはずがない、と計算していた女が土壇場になって姿を見せたのだからそれは驚いた。
「ライバルなのに、やっぱり嫌いなれない。」
布団の中で早い呼吸を見せる彼女に視線を送り呟くと、精市がようやく顔を上げて私をみてくれる。同じクラスなのに、良く話す相手なのに、私のことなんてまだこれっぽっちも知らない彼が見せる小学校5年生のころとまるで変わらない落ち付いた表情に苦笑した。
「幸村君、私あなたのことが好きです。小学校5年生の全国大会のころから、大好き。」
私が彼に気があることは本人も気付いているだろう。これだけ付き纏っているのだから、気付いていないわけがない。そんなことはほっておいて、こんな一世一代の告白をした。結果が分かっていても、伝えたい気持ちが止められなかった。
「小学校の全国大会?」
「女子テニスに最近まで興味のなかったあなただもん、知りませんわよね。私がテニスをしていて、昔ダブルスで優勝したなんて昔の話。」
反応は予想通り、やっぱり驚いてくれた。ジッと穴が開くように私に見入る。そんなに見ても、何もないだろうに。
「女子のダブルスでは結構有名でしたの。小学校5年のあの夏、初めてあなたと会話をしました。試合前、花壇でイメージトレーニングをしている時がに丁度そこを通りかかったあなたが『綺麗な目だね。』と言ってくれた。」
悔しいけれど、幸村精市に女子テニスへの興味を湧かせたのもきっとさんなのだろう。これは勝手な憶測でしかないけれど。
「確かにそんな記憶はあるけれど・・・、君に?」
顔に身に覚えがない、そう言いたそうだ。
「小学校2年の時に骨折した鼻をそのままにしてペシャンコになったのを整形で治しました。それにソバカスもとって、これが今の顔です。」
顔が原因で受けた嫌な思い出なんて、掃いて捨てるほどにある。だけど、褒められたことはなかった。たった一人、偶然会った男の子が私に自信という強さをくれた。
精市からもらった褒め言葉、目が綺麗だと、整形で鼻を治すまでそれを誇りに男子の中傷も受け止めて来た。
「嬉しかったです、綺麗なんて言葉は初めてでしたから。」
そしてもう一つ。
「あの大会で、言葉の暴力を受けているところを助けてくれたさんと、お姉さんの桔梗さんにもとても感謝しています。」
すれ違う男子は皆、私を振り返り「なんだあの顔。」そう言った。「ダブルスの優勝候補だろ?雑誌で写真見たけど本物はもっとひでーや。」そんな言葉も聞いた。
いつもならフザけんなと心で罵倒して強気でいられるのに、あの日は優勝へのプレッシャーと練習のストレスで感情が不安定になっていて、人前で泣いてしまいそうだった。ケラケラと笑って去っていく高校生の後ろ姿に嗚咽を上げそうになっていた時、突然誰かに掴まれた右手に涙を一瞬引っ込めた目が上がる。
小学校の女子テニス界で、レッドローズを知らない人間はいない。その有名な子が、ぎゅっと私の手を握っていた。
『お兄さん達、アンドウさんに謝って。』
彼女は私の名前を知っていた。
『女の子にそんなこと言うなんて腐ってるわ。』
さんの隣に立つとても背の高いお姉さんが高校生を叱ってくれた。逃げていく高校生を見て、なんだか救われた気がした。気持ちが軽くなって、涙が完全になくなった。
2人と一緒に会場にいる両親の元へ戻る間、新しい友達ができたと強く感じた自分がいた。初対面なのに、あんなに打ち解けて話せる子は初めてだった。
『明日の試合頑張ってね!』
手を握り、腕をブンブンと振り回される。檄を飛ばす彼女の目が輝いていた。
テニスは強くなればなるほどライバルも増えてくる。そして敵意を浴びることになる。女は嫉妬に塗れやすいから、女子テニスは特にひどいと思う。実際、私もダブルスの上位につける女子達とは犬猿の仲だった。でも、レッドローズの悪い噂は聞いたことがない。
きっと彼女の性格が、悪い噂を立たせないのだろう。こんなに綺麗で、強くて、優しい子は滅多にいない。
「あなたのことも、彼女のことも好きなんです。」
だから、彼女にならあなたを譲ろうと思える。
「・・・安藤、俺は君の気持には答えられない。」
ええ、分かってる。
「結構です。でも、想うのは自由にさせてください。」
だって、しばらく諦められそうにはないから。
精市が、またさんの髪と頬を撫で始める。そして何かを考えるように首を傾げたあと、言いにくそうな表情で私に横目を向けた。
「あと・・・桔梗さんだけど、あの人はのお姉さんじゃない。男だよ。」
「・・・ッはぁ?!」
「女装が趣味らしいお兄さん。さっき電話で迎えに来るって言ってたからもうすぐ来ると思う。・・・って噂をすれば。」
人差し指を立てて、私の後方を差した精市。恐る恐る後ろを振り返ると至近距離にある端正な顔に、声にならない叫びを上げた。いつから此処に居た、この男性(ヒト)!!?
「んーもぉ。ばらしちゃダメじゃない幸村君。それに・・・久しぶりだね、アンナちゃん。」
「わ、私のこと覚えて・・・?」
「ああ、俺は話した事のある女の子は忘れない。しかも小5の時と一緒に表彰台に上がったし、」
印象は大きいよ、そう笑う彼の表情には確かに「お姉さんだと思っていた桔梗さんの陰」があった。
「それより悪い、2人がいい雰囲気のところがいちゃムード台無し?邪魔者は連れて帰るね。」
布団を剥がしてドレスの彼女を易々と肩に担いだ桔梗さんを見上げる。
ブラン、と彼の肩にぶら下がったさんが一度ビクリと跳ねて、ゆっくり垂直90度に垂れる頭をこちらに上げた。そして、桔梗さんの姿を確認して安心したように少し笑った。
「結構キテるな、。」
「lass mich ins Bett geh・・・。」
「ほら、帰る前に幸村君と安藤さんにバイバイして。」
顔だけゾンビのようにこちらに上げるさんは手を上げたいのだろうか。でもまるで力が入っていない。それに気付いた桔梗さんが彼女の手頸を取ってまるで人形を扱うかのように「バイバイ」と手を揺さぶる。無動作に引っ張られるマリオネットのようにブランブラン動く身体が気味悪い、そう思ってしまった。
この兄弟は、いつもこんなんなのだろうか。
「幸村君、見舞いはまた別の機会に。なにか欲しいものはある?」
さんを肩に背を向け歩き出した桔梗さんが思い出したように振り返って、問う。その質問に微笑んだ精市にはもうさんを好きだという気持ちに迷いがない。
「を連れてきて下さい。」
それが何より嬉しいから。
そう言わんばかりの表情に私の失恋はやっぱり明確だった。