One for All









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「病院を移ることになったんだ。」

作ってきたケーキにナイフをいれ、幸村の皿にその一切れを取り分けているところ、静かな、決心したような声が静かな病室に響いた。
しっかりと聞えていた言葉に止まったナイフを持つ左手と視点。イチゴが乗ったショートケーキを選んだのは確実に間違いだった。誕生日やクリスマスのお祝いに用意されるケーキだ、こんな日に持ってくるべきではなかった。
一度目を強く閉じて、弱く開く。

夢ならいいのに。

そう思った。

でも開いた目の先にあったのは紛れもなくショートケーキ。カタンと置いたナイフが音を鳴らす。さっきまでお腹がすいていて切り分けたケーキなのに、空腹が一瞬で吹っ飛んでいった。静かに椅子を引いて、ベッド脇に腰掛ける。
幸村は、睫毛を伏せ掛け布団の上で拳を握っていた。視線を上げようとしない彼の様子が先週までと違うことに気がついて、彼の左手の拳に、私の右手を重ねた。

「・・・遠い病院?」
「この街から電車で1時間半くらい。」

それは、こうやって学校帰りに気軽に寄れる距離じゃない。わざわざそんな遠に送られるということは、どこの病院でも良いというわけではないということだろう。

「検査結果が出たの?」
確認を取る質問にふっと軽い息を吐いて、彼は目を瞑った。

「君はさすがに鋭い。」
私の右手の下にある幸村の手が自身をより一層強く握ろうとしているのを感じる。そして、手が震えて始める。力は入らない筋肉の緊張が、手を震わせているのだ。私の右手に力を込めて、震えを抑えようと試みたけれど、それは治まらなかった。

次の言葉を待つ時間が、永遠のように長く感じた。





「免疫系の難病、らしい。」


『難病』という一言に背筋が凍る。

今度は私が左手をこれ以上ない程に握りしめていた。

無意識なのに、掌に爪が食い込む。

反対側にあるサイドテーブルから紙を取り出した幸村が、それを私に渡して静かにケーキの皿を取った。綺麗にフォークを持つ手を視界に入れながら、渡された紙に視線を落す。

幸村精市
土谷総合病院 神経内科: 受け入れ 12月13日 12:00

目に留まったのは『神経内科』という文字。

一番恐れていた組織の疾患が目の前に叩きつけられる。












人間が身体を動かすことができるのは脳から出る太い神経と、その末端で別れる細い神経が体中の至る所に根を張り、脳から出されるインパルスの送信と末端部の返答を可能にしていることにある。そして内臓の働きやリズムも多くの神経によって管理、運営されている。
事故や怪我で神経を損傷すると、その神経の末端部で運動障害が起きる。主要神経を断裂すればもう二度と四肢を動かせなくなる。神経細胞に異常が起きているのなら、その異常が全身に拡散することもある。完全な神経の死は人間の死とも言える。自立神経はその良い例だ。呼吸の働きを管理しているインパルスが途絶えれば、人間は意識しないと呼吸すらままならなくなるのだから。難病と呼ばれる多くのもので神経を扱っているものはインパルスの発信先である能に障害があることも多い。

ただの骨折や、怪我ではない。
私達プレイヤーが良くお世話になる整形外科や外科に比べ非常に複雑で、研究も進み切れていない分野なのだ。

「でも俺は、諦めない。」

紙に視線を落して、ぼーっと紙に書かれた文字を何度も目で追っていた。幸村が発した声に思考から現実に戻されてようやく顔を上げる。

静かに、芯が通った声で幸村は前を見ている発言を今までと同じように繰り返した。

「なんで・・・そんなに強くいられるの。」

不調を繰り返して、いきなり倒れて、入院させられて、診断の結果が難病なんてフェアじゃない状況下にいるくせに、なんで前を見てられるの。

理解不能だよ。
怒ったように声を上げる私に目を細める彼は、視線を窓の外に映して言う。これ以上ないほどに落ちついて、静かに、





「君がいるから。」

君が、支えてくれるから。

「真田も、部員も、そして家族も待ってくれているから。」

仲間と大切な人達がいるから。

「一刻も早くテニスがしたいんだ。」

俺を・・・。自分を取り戻すために、テニスがしたい。



笑っても泣いても、過ぎて行く時間は過ぎて行ってしまう。それは変わらない。
だったら、ネガティブに堕ちるより、ポジティブでいるほうが心に良いに決まってる。


「だから俺は諦めないよ。」