「昨日ね、精市君のお母さんが来てね、」
麻紀ちゃんにお昼ご飯を一緒に食べようと誘われ、屋上の花達がすぐ側にいるベンチに腰を下ろした。卵焼きを食べていた麻紀ちゃんが箸をお弁当箱に置いて、俯いたまま呟く。
「精市君の置いてあった教科書とかジャージとかみんな持ってちゃった・・・。」
持っていたスプーンをヨーグルトの中にいれ、私も花壇に目を下ろす。
幸村が部活に来なくなって一週間、学校に来なくなって一週間。ただの検査入院だと本人は言っていたけれど、昨日彼のお母さんが荷物を持っていったということは来週も学校に来られないと理解していいだろう。ご本人に直接聞き出すことはしなかったけれど、そんな雰囲気をかもし出していたから多分間違いない。
『ちゃん、心配をかけてごめんなさいね。』
職員室前を通りかかった時、ばったりあった幸村のお母さんは2年のジャージが入った紙袋と布の重そうな袋を持っていた。布袋に入っているのが教科書だと分かって、車まで運ぶのを手伝った。
『病気なんて滅多にする子じゃないから、今回もすぐに元気になると思うのだけど医師(せんせい)が退院はまださせられませんっていうものだから。』
疲れた表情を見せる彼女に掛ける言葉がなかった。幸村を一番心配しているのは間違いなくお母さんだろうから、私の勝手な感性で「大丈夫ですよ。」なんて軽はずみなこと言えるはずがなかった。
『お見舞いに行ってもいいでしょうか。』
そんなことくらいしか、言えない。
『もちろん!ちゃんが来てくれたらあの子も喜ぶわ。あと、また家にも遊びにきてね。精市がいなくてもいつでも来ていいのよ。』
発車した車を見送って、校舎に戻った。
幸村が一日も早く学校に来れますように、そんなことを願いながら。
「ほら、足が止まってるよ。3ラリー続けられなかったらグラウンド20周だからみんな頑張って打ち返そうね。」
が週2で男子の練習を手伝うようになって1週間たった。琴音ちゃんから聞いた話によると真田君がに頼んだらしい。レギュラーを真田君が観て、レギュラー以外をが観る。が指導に来ると男子の平部員はそれはそれは喜んでいた。幸村君より厳しくないと思ったのだろうか。彼女は彼に劣らず甘くない。案の定、の練習のほうがいささかハードだったようで、平部員達が茉莉亜には鬼だと言ったらしい。
『なんだお前ら今頃気づいたのか。先輩は鬼なんて可愛らしいもんじゃねえ!閻魔様だぜ!』
そんなことを飄々と言った茉莉亜はさすがで、腑抜けた部員達を腹で笑っていた。この話を聞かせてくれたのは由里亜で、彼女の話を聞きながら麻紀ちゃんと祥子ちゃんがうんうん、と頷いて女子テニス部に茉莉亜の『閻魔説』が浸透した。
があっちのトレーニングに行っている間、私達女子は2年のレギュラーが交代で女子テニス部をまとめている。今日は私の番。
私には向いてない。こうやって人の上に立って物事を動かすことにとても苦手を感じる。
「奈々さん絆創膏切れてるんだけど買いに行ってもいいかな?」
「あ、うん。お願い!えーっと、あれ、部費は何処にあるんだっけ!?」
私は部員だけど、献上するのは技術だけでそれ以外の事を何も知らない。マネージャーの愛美ちゃんが慌てる私を見てクスリと笑う。
「落ち着いて、落ち着いて。部費は私が預かってるから大丈夫。じゃぁ、ちょっと出てくるね!」
私より、愛美ちゃんのほうがずっとずっとしっかりしてる。
「奈々さん、第一コート終わりました。」
「了解。じゃぁ、レギュラー集合。レギュラー以外の子はクールダウンしたら上がってね。残りたい子はもちろん残っていいよー。」
あと数分もすればが帰ってくる。そしたら私の任務もようやく終了。レギュラーはあと1時間、部長と一緒に練習がある。予想通り、レギュラー以外の子もその大半が残るつもりらしい。みんなまだ、部室に戻ろうとしない。
レギュラーの一人と言えど、部長に比べたら私達は信頼も技術もない。
部長が来るから、通常部活の時間後も残ろうって部員が思う。そんなボスであるはやっぱりすごい子だと、
ヒラヒラ手を振りながらやってきた彼女の顔を見て思った。
「男子の練習をが観てくれているって、真田に聞いたよ。悪い、本当なら俺がやるべきことを君に任せてしまって。」
「そんなこと気にしなくていい。今日は真田お見舞いに来てないね。」
「来るなって言ったんだ。」
さっぱりそんなことを言う幸村に目を丸くした。もしかして、誰にも会いたくなかったのだろうか。アポも取らずひょっこり来てしまった自分の行動を後悔しようとした時、
「今日は君がくるって柳から聞いていたから。との時間を邪魔されたくないしね。」
そう言われ、咳き込む。この子はなんでこう、恥ずかしいことを平気で言えるんだろう。私の背中をポンポン優しく叩く彼は笑う。でも話をしている途中や、話すこともなく幸村は本を読んで、私は宿題をしている途中、不意に見せる落ち込んだ彼の表情を見逃せなくて私はやっぱりどうしようもない気持ちになってしまう。
「来週は練習試合がいくつかあるから来れないかもしれない。」
幸村が入院してもうすぐ3週間。検査入院ってこんなに長いものなのだろうか。
「今日はすごく調子がいいんだ。」
お見舞いも今日で数回目になった。部活が終わって余裕がある日には必ずこの病院に寄って、話すことがなくても何となく同じ空間に座って、ぼーっとして、お互いやりたいことをして。それはそれで悪くないけれど、やっぱりここが病院ということが合っていない。面会時間が過ぎたら、私はこの部屋を後にする。「また来るよ。」毎回の別れ言葉も変らない。同じサイクルがグルグル廻る。幸村は何を思っているんだろう。入院生活なんてメリハリのない生活を一人で、どんな思いで切り抜けている?それは酷く退屈だと思う。毎日同じ時間に朝食があって、それは美味しいものではなくて。医師が診察に来て、看護士がシーツを代えに来て、昼食があって。恐ろしく長い午後もベットで過ごして、そしてまた夜になる。早く戻ってきてほしい。部長の幸村を男子テニス部は必要としている。
私も、幸村に戻ってきてほしい。
トントン
病室のドアを叩く音に、重い耽っていた頭を切り替える。遠慮がちにドアが開けられると、立海の制服を着た女の子が入ってきた。
「こんにちは、幸村君。」
彼女は私の姿をチラリと見て、彼に笑顔で挨拶をする。知らない顔だ。
「安藤、毎日悪い。大変だから週末にまとめてくれていいのに。」
「いいのー。私が幸村君に会いたくて来てるんですもの。はい、これが今日の分。数学が結構進みましたわ。」
幸村が安藤と呼んだ彼女はどうやらA組のクラスメイトらしい。そういえば学級委員の子が幸村にノートを届けている話を麻紀ちゃんが部室でしていた気がする。
「、この子は安藤アンナ。A組の子だよ。安藤、女子テニス部の。」
「はじめまして、です。」
「・・・はじめまして。御噂はかねがね。」
ああ、何かチクチクする。この子もしかしてファンクラブの子だろうか。
「それより幸村君聞いてくださいな、今日竹林が!」
完全に部屋の雰囲気を自分の物にした彼女が、幸村のベッドに腰を下ろし話題をA組の日常に切り替えた。邪魔するのは悪いな、そう立ち上がり椅子に掛けてあったコートに手を伸ばす。幸村の顔も見れたし、今日は御暇しよう。そうだ、帰りに駅でケーキを買って行こう。今日はマリーが呑み会に行っているからきっと夜ご飯が家にない。
「幸村、私今日は帰るよ。また来るね。」
「え、ちょっと。」
コートを手に持ったまま病院の廊下に出る。外は暗くなり始めていて、廊下を人工的な白い蛍光灯が照らしている。
正直、疲れて来ている時は、ああ言う子の近くになるべくいたくない。
だから逃げるように出てきてしまった。
「!」
幸村がわざわざ追ってくると分かっていたら、そんな逃げ方しなかったのに。
「ちょ、ちょっと幸村、出歩いちゃだめでしょ。車椅子は!?」
エレベータのボタンを押して待っていた私の手首を彼に掴まれる。彼は歩いてここまで来た。今日は調子が良いと言っていたけれど、いつ倒れるかも知れないのに。
「ごめん、嫌な気にさせてしまったかもしれない。安藤はああゆう子なんだ。」
「そんなことはいいから。それより早く病室に−。」
戻れ、そう言う前に口を塞がれる。
優しいけど、強く、深く。
「・・・んッ。」
この力・・・。この子、本当に病人?
それよりもここは病院で、廊下には人もちらほらいて、しかも幸村の背後遠くで安藤さんがこちらを見ていて、その表情がすごく、苦い。その表情に彼女をさせているのは間違いなく、私達のこの行為。申し訳ない気持ちがズシリと心に圧し掛かった。
加速するキスに任せてしまいたい衝動の中でもしっかり理性は保たれていて、ここではマズイと脳が私に訴える。
「ッきむら。」
離してくれない彼への最終手段と、下唇を軽くかんで怯んだ隙に体を離した。噛まれた本人は驚いたようで、目をパチクリさせて私を見る。
「・・・人前ではしないで。」
もうやだ。何だか体が熱い。
「なら安藤には帰ってもらわないと。病室なら誰もいないからね。」
クルリ、180度方向を変え歩き出す幸村の手を今度は私が慌てて掴んだ。この子は何を言っているんだ。今したんだからもういいじゃないか。
「え、ちょっと!私が帰るってば。」
聴く耳持たずとはこのこと。ズカズカと廊下を行く幸村に置いていかれ、立ちすくんだ蛍光灯の廊下。彼がはるか前方で病室の前に立っていた安藤さんに何かを伝えると、やっぱり苦い顔をした彼女はカバンを持ってこちらへ歩いてきた。
とても不機嫌な表情でエレベータへ歩いてくる彼女を見て、私の頬は引き攣っていたと思う。修羅に巻き込まれている気がこれでもか、という程する。
だって彼女はすれ違い際、私に言った。
『あんたなんかに精市は渡さなくてよ。』
すくんだ足に、悪寒。チン、と鳴ったエレベータが閉まる音がする。恐る恐る振り返るとそこにはもう、彼女の姿がない。
はぁ、と溜息をついてトボトボまた幸村の病室へ歩きだす。
『来週来れないんだろう?じゃぁたくさん充電しなきゃ。』
ベットの上でそう言われ、やっぱり彼の行動に私の心が惑わされる。変な感情に襲われる。
この後、我武者羅なキスの嵐が終わりなしに降ってくると分かっていたら、きっと今日は大人しく家に帰っていただろうに。