「Jr選抜お疲れさまでした。」
公休1週間をJr選抜で過ごし、倒れ込むように帰宅した神奈川で真っ先に向かったのは琴音の家だった。私がいなかった1週間の部活の様子を聞きに訪れると、同じく今日帰って来たという真田が既に今に居座っていた。
「男子の方はどうだった?」
「大したことはない。我ら立海の方が何倍も辛い練習をしている。女子は槙野ツグミがいなかったようだな。」
「声は掛かっていたみたいだけど。おかげでこっちも去年ほど辛くなかった。」
そうか、と呟いた真田が視線を下に落し何か考えている。
「、お前幸村のことで気になることはないか。」
麦茶のグラスを口に付けた瞬間に、真田からの爆弾質問に目を見開いた。まさかこの鈍感男にまで私の気持ちの変化を見透かされているのか、と。
「・・・合宿中少し気になることがあってな。」
真田が気になること?ああ、恋愛とかそうゆうんじゃなくてテニスの話か。
「何、幸村が弱くなったとか?彼とは打たないから分からないよ。」
「ふむ。」
「まさか本当に弱くなったの?」
「実は仁王と幸村が打っていた時、仁王の打球にラケットを飛ばされたのだ。」
麦茶を流し込んで、顔を顰める。
幸村が仁王相手に打ち合いでミスをした?
「普通じゃないね。」
「ただの集中不足だろうと思っていたのだが、そんなことが後日俺との打ち合いでも起こった。」
それは真田が気にするのも無理はない。
あの幸村が打ち合いで負けるならまだしも、打球に押されてラケットを離すなんてミスをするなんて、あり得ない。
「調子悪いのかもしれないよ。ほら、合宿中って気詰まってるし、あの子結構ストレスに弱そうだし。」
黙り考え込んだ真田を前にグラスを卓袱台に戻す。襖を開ける音がすると琴音が茶菓子を持って戻ってきた。少し落ち込んだ部屋の空気に気付くことなく、笑顔でどら焼きを渡す彼女にありがとう、とお礼を言う。
真田が琴音のいないところでこんな話をしたのは、幸村の不調は極秘だという表れなのだろう。そう勝手に理解して栗どら焼きに齧り、真田が話してくれた幸村のミスを想像してみる。
やっぱり普通じゃない。
やっぱりあり得ない。
今日は満月だ。
真っ暗な空に真ん丸に浮かぶ楕円の前を真っ黒い烏が飛んで行った。
桜の紅葉も終わって葉が散り始めた。コートには相変わらず元気な女子テニス部メンバー、フェンスの外には絵理ちゃんと彼女の友達、確か亜紀ちゃんという子が練習を見に来ていた。
「おーい部長!次の試合どうする?」
遠くのコートでラケットを振り回答を求める柚子が今日は一番元気だ。
「ダブルス2と1年生の宇田ちゃんと垣下さん、コートに入れて。あくまで指導だよ、ダブルス2は本気で掛からないこと。」
「「了解ー!」」
ダブルス2と言われ、麻紀ちゃんと春希がベンチから返事をよこした。私も琴音とラリーしようか、ラケットを手にする。そんな時、外野から大声が上がった。
「浜野!」
女子ばかりの声が満ちあふれているこのコートに、男の声がする。切羽詰まった声を上げたのは丸井だった。
「ブン太?」
私の隣で奈々が首を傾げる。
「仁王を止めてくれ!!」
そう言うと奈々を待たずに男子コートへ走り出した丸井の背中に、今度は私も奈々と一緒に首を傾げた。
「「はぁ?」」
「わしらの上に立つ奴がそんなんでいいんか聞いとんのじゃ!!」
奈々に一緒に来てくれと言われ琴音に任せた女子コート。男子コート内の様子がおかしい。仁王が、幸村に掴みかかって取っ組み合いをしている。そんな2人の様子を柳は冷や汗を流して見ている。この男たちを止められそうな唯一の存在、真田の姿がない。
「に惚れた勢いでテニスに気を抜いてるんと違うんか。何とか言ったらどうじゃ!」
温厚で、普段は文句なんて口にしない仁王が荒れている。しかも罵声に女の名前があることに、男子コートを囲んでいるファンクラブの人間が表情を濁した。
「ちょ、ちょっと2人とも何してるの!」
奈々が慌ててフェンス内に入る。あまりの驚きに足がすくんでいた私もそれに続いて。私達に気付いた仁王が舌打ちをして、掴んだ幸村の胸倉を乱暴に話す。
「頭冷やすんじゃ。」
幸村に言ったのか、自分に言ったのか、仁王はラケットを持ったままコートを出て行った。奈々に相槌を打って『追ってくれ』と諭す。殺伐とした雰囲気の男子コートに木枯らしが吹く。散った桜の葉が舞い上がる。
「一体、何がどうした訳。」
地面に座ったまま苦い顔をする幸村からの回答はゼロ。私の声も届いていないか。
「柳、説明してくれる?」
小さく首を縦に振った彼に向かい、幸村をそこに残す。今はきっと私が何を言っても聞いてくれない。
移動した先は男子部室。窓からコートを、立ちあがり指揮を取り始めた幸村を眺めながら柳が小さく溜息をついた。
「精市の様子がおかしい話は弦一郎から聞いているな。」
「おととい聞いた。」
「今日は合宿中よりも酷い状態だ。ラケットを飛ばされた回数が2回、ラリー中にコート内で立ち止まった回数が3回。見かねた仁王と言い合いになった。」
「それは体調不良?」
「分からない。」
迷惑をかけて悪かったな、そう謝罪する柳は難しい表情を見せている。部活中の不和はあることだ、一々気に留めることではない。だけどその原因が部長で、幸村らしくないミスの連続が、なんだか感情を波立たせる。
嫌な予感がする。
その予感が何なのか、この時の私は把握できずにいた。