床に投げ置かれている携帯電話のバイブレーションが止まる気配は一向にない。
ブーブー・・・。ブーブー・・・。
10分程前から数十秒鳴っては止まり、十秒大人しくしていたかと思うとまた鳴りだす。普段は電話なんて滅多にかかって来ないのに、かけてきて欲しくない時に限ってよく鳴る。こんなことならリビングに放置して置くべきだった。
ブーブー・・・。ブーブー・・・。
まだ止まない。
集中力を要するこの作業中にあってはならない騒音だ。無視しても鳴り続けるその音に、終にイライラが限度を超え、持っていたピンセットを床に置いた。
ブーブー・・・。ブーブー・・・。
震えながら床を微妙に移動するその機械を乱暴に取り上げる。このまま握りつぶせたらどれほど爽快だろうか。そんな握力がない自分を『はっ。』と笑い飛ばして、折りたたみ式携帯電話を開ける。『着信』という文字と一緒にディスプレイされている写真は、彼女と私で一緒に撮ったもの。肩を組み合いピースする写真は去年の全国大会の時の一枚だ。
電話を掛けて来た人物は予想通りだった。彼女以外にこんな非常識な電話の掛け方をする人間、私の知り合いにいない。
「・・・五月蠅い。」
『やっと出た。』
人の気も知らないで『遅いわよ。』そう鼻高々に放つ彼女の機嫌は、今の私と同様に些か斜めのようだ。
『またプラモデル作ってたんでしょう?』
「そう。もうすぐで4台目のヤマトが完成する。」
『ヤマト?』
「宇宙戦艦ヤマト。」
『知らないわね。』
国民的アニメのアの字も知らないなんて。これだから金持ちは話が合わない。いや、『金持ち』と言うのは語弊か。金持ちの玲は知らずとも、金持ちの景吾はヤマトを知っていた。それどころか一緒に彼のどでかいテレビでDVDを見たこともあったっけ。
『庶民的でいいじゃねえか。あーん?』
涙を堪えながら平然を装ってそんなことを言った。感動の最終回で泣かないようにグッと堪えている彼の表情がおかしくて、私はひたすら笑いを堪えていた。もう数年前の話だ。私と景吾はまだ小学校低学年だった。
『それで電話を掛けた本題だけど。』
鋭く、低くなった玲の口調に、意識が記憶から電話へと戻っていく。自室の外から玄関のドアが閉まる音が遠く響いた。
『報告が遅れてごめんなさい・・・。』
煮え切らない玲が、一度言葉を止めて短い沈黙が訪れた。
『私ね、来週からイギリスに行くことになったの。』
『・・・それは随分急な話だね。もしかしてこの前景吾と喧嘩したのもそれが理由?』
『ええ。彼にも事後報告でね。』
それは景吾が怒って然り。
『高校であなたに勝つために、2年間あっちで腕を磨く。』
反対しても、止めても無駄よ。
そう言う玲の意思は固かった。お嬢様なのに人に用意された人生を歩むのが大嫌いで、自分の事は自分でやらないと気が済まない。そんな彼女だから、私はきっと玲と仲良くなれた。頑固なのも知ってる。私が何を言っても自分の決意を曲げるような人間じゃない。だから、寂しさと、彼女がいなくなる悲しさを押し込めて、電話際で泣かないように受話器を握り締めて深呼吸した。
「いってらっしゃい。」
『あなたなら、そう言ってくれると思ってた。』
ありがとう、。
受話器を切った瞬間に襲ってきたのは喪失感。もっと早く分かっていたら、これから暫くないからと、会う機会も増やせただろうに。彼女は今の今まで黙って、私にそれを悟らせなかった。
「送るほうは辛いんだよ。」
きっと玲は分かってない。
彼女は私にとって一番近い、大切な親友なのに。
「。」
玲は今頃雲の上だろうか、それとも既にあっちに着いているのかな。『落ち着いたら電話する。』と言っていたけれど未だに玲からの音沙汰はない。
「・・・。」
景吾がいつか言っていたように、本当に一方的で突破な女だと心で悪態をついてみる。冬休みか春休みになったら実家のスウェーデンに帰るついで、イギリスに乗り込んでみようか。2年会えないのは、やっぱり嫌だ。
「カトレヤ!」
「・・っはい!」
「話、聞いてた?」
「聞いてませんでした。」
「残念だな。部活中だったらグラウンド30周走らすのに。」
にっこり。女子がメロメロになる笑顔でやさーしく笑った幸村にははは、と相槌を打って目の前のコーヒーカップを上げた。男子テニス部で部長の話をシカトするということはグラウンド30周に値するらしい。全国大会が終わって初めての部長会議。私達がやってきたのは彼に好きな人ができるまで一緒に来ようと約束したあのカフェ。すでに彼には好きな人ができたらしい。まさかそれが私だとは、うん。今でも本当なのか冗談なのか分からない。でも、それを考え出すとキリがないので最近は考えないようにしている。
前回と同じ店員のお姉さんに、前回と同じ席に案内された。海原祭出し物に必要な出費の報告と全国大会で保護者会から出た資金の残高を報告し合って、会議はわずか10分で終了。報告書を作成したのは男子テニス部も女子テニス部も副部長の2人だから、用意されたものを持って紙に書いてあることを言えばいい部長という役は気楽でいい。
「ジュニア選抜の話だ。東條さんが出ないのは知ってるけど、君の先輩は来るのかい?」
「ああ、槙野先輩?来ないんじゃないかな。声は掛かってると思うけど。」
「そうか。・・・それにしても忙しいね。」
「そうだね。」
幸村は槙野先輩が忙しいと言ったんじゃない。窓の外に目を向けた彼の視線の先では、人の往来で街が活気づいていた。細められた目は些か重力に落ちている。
「今年は海原祭に、ジュニア選抜が立て続けだなんて。本当に忙しい。」
一つ溜息をついた幸村に苦笑した。こんなに草臥れている彼は普段学校で目にしない。部活中なら尚更。強さしか求められない部長の人間らしさが垣間見れて嬉しく思う。
「お疲れだね、部長さん。」
はっと顔を上げて「疲れてるのかな。」きょとんと眼を丸くした彼に今度は私がにっこり笑った。
「うん。君、疲れてるよ。」
最後のコーヒーを一口飲みほして、ウエイターのお姉さんにこの前食べられなかったミルクレープを前回の分も合わせて2つ頼んだ。今日は前哨戦だ。
「その疲れをミルクレープでチャラにして、明日の海原祭を盛り上げよう。はい、フォーク。」
差し出した銀のフォークを受け取って、さっきまでの疲れを隠し、自信満々に「もちろん。」と言った幸村はとても頼もしい『部長』の顔をしている。そう、明日は終に海原祭という一大行事が待っている。体育館での出し物、トップバッターは私達テニス部の演劇。テニスの練習の時間を割いて男女合同で準備してきた演劇だ。絶対、成功で終わらせたい。
「魔女のカトレヤ、潰すのが楽しみだ。」
ふふ、と柔らかく笑って物騒な事を言う王子様に咳き込んだ。
玲さん旅立つ