夏の長期休暇中に行われた全国大会も今日の準決勝と、明後日の決勝、そして最後の3位決定戦を残し終わりを迎えようとしている。脱落した学校の中には全国大会を最後まで見届けようと名古屋に残っているところも多い。そして、関東代表が残っていると遠方から駆けつける人達が後を立たない。アイドル、浜野奈々のファン達はソーシャルネットワークのグループで応援を企画し団体で乗り込んできた。準決勝は野外の予定だったけれど、あまりの観客の数に執行委員会が決勝で使うドーム内コートを開けることにし、会場の雰囲気は全国大会決勝、まさにそのもの。
初めて体験する会場の雰囲気と、期待への圧力に萎縮する部員達。「いつも通りやればいいよ。」それくらいしか緊張を解す言葉が見つからない。これは慣れだ。自分たちで打開してもらうしかない。
相手の学校はさすがに強かった。私達以外に優勝する学校があるとしたらこの学校だと思う。ダブルス2とシングルス3を落とした。ダブルス2では麻紀ちゃんが最終ゲームで捻挫。シングルス3では春希が肩を負傷。どちらも軽症で済んだのが幸いだ。
この2戦負けは予想外の事態だけれど、選手の実力で見ればこの先に負けはない。シングルスで2勝取って決勝に進むのは立海。
シングルス2を担うのは道明寺琴音。琴音と奈々はプレイスタイルが天と地ほど差があるけれど、実力は同等。これまでの校内選抜で奈々が琴音に勝つことができたのは彼女のプレイスタイルが、琴音のプレイスタイルを押せるものだったから。つまりは実力じゃなくて相性の問題。私は絶対の信頼感を彼女に持っている。勝って帰ってくると琴音を選んだ自分にも自身があった。
でも、試合の進み具合は思わしくない。
「ボール重そうだね。」
「はい、まるで男性と試合をしているようです。」
ゲーム間の休憩中、ベンチに座り膝を気にする彼女に気づいて眉を寄せた。反対側では巨体の相手選手がこちらを見てニヤリと笑っている。ベンチの下に置いた救急箱から冷却スプレーを取り出して、琴音の膝に吹き付ける。これで緩和するとは思わないけれど、やらないよりはマシだ。
「・・・。」
「足へ負担をかけるためにあんなに振り回してたってわけ。」
心なしか、右膝が腫れているような気がする。この足は、琴音が小学校の時に負傷した足だ。彼女が小6の全国大会に出れなくなった怪我を抱えた足だ。
「・・・まだやれる?」
「もちろんです!!!棄権なんてさせたら怒りますよ!」
こんな風に声を荒げることを彼女は普段しない。
琴音が夢見た全国大会優勝の表彰台。そこへ登りつめたい彼女の気持ちを痛いほど知っている。部活を立ち上げ、苦労してまでたどり着きたい目的地はすぐそこにある。手の届きそうなこの状況を投げ出すような真似、彼女が絶対に許さないことも長年の付き合いで分かっていた。
「無理はしないように。」
その一言で琴音をコートに送り出した。すぐに行われた審判コール、そして始まる第5ゲーム。サービスを構える琴音に観客の応援が一層大きくなる中、未来を知る死神は、コート上で狙いを定めていた。
『琴音ちゃん、辛そうだね。』
試合が始まって少しして、コートに目を細める幸村君が漏らした一言。周りに座っていた私達はみんなして幸村君に視線を送った。この時、琴音ちゃんの身体の負担に気づいていたのは彼と、そして祥子ちゃんの2人だけだった。
『相手選手の構え・・・あれはヘビースカットの原型体勢です。』
『でも祥子チンのとは大分違くない?』
『私のは我流というか、あの体制からもっと踏み込んだ体勢なんです。あの原型からでも充分相手に負担をかける打球は打てます。』
『琴音ちゃんは背骨への負担をステップで回避してるけど、あの足技は膝への負担がとても大きい。俺も経験があるから、分かるよ。普段から使ってない人間にはかなり辛いはずだ。』
真田君は、コートを走る彼女をジッと見ていた。渇を上げることもなく、考えていることを表情に出すわけでもなく、ただ前だけを見ている。
始まった第5試合は、琴音ちゃん有利に進んでいるように見えた。あと1球で第5ゲームを取れるところ、勝てると誰もが思った瞬間、幸村君が急に立ち上がった。隣に座っていた麻紀ちゃんが彼の急な行動に驚いて、持っていたドリンクボトルを落とす。
「琴音!!!!」
幸村君の声とほぼ同時にコートから聞こえたのはの声。スポーツを長年やっている人間は、どの動きが身体のどこに負担をかけるか知っている。私達の部長2人には琴音ちゃんの数秒先の未来が見えていた。
ベンチから立ち上がり、救急箱を手にした。何、とコートを誰もが注目する。琴音ちゃんは今、まさに飛んでくるボールを返そうと足を地面について身体を捻っていた。そのボールがガットに当たった刹那、ラケットが彼女の手から離れ、遠くに飛ばされる。
まるで張り詰めていた糸が切れたかのように勢いよく地面に倒れこんだ琴音ちゃんの身体。それは蓑虫のように丸まっている。彼女が両手で必死に抑えていたのは、右足だった。
「琴音・・・。」
真田君が帽子のつばを下げ、俯く。
「っっっ!!!ん!」
「琴音、足出して。」
審判が試合を中断させ救護員を呼ぶ間、救急箱を持ってコート内に走って行ったは彼女の膝で何かのテストをしていた。ゆっくり膝から離されるの手。彼女は厳しい表情を作っていた。
「!私はまだやれます!!!」
「・・・。」
「できます!!!」
「・・・。」
「お願いします、やらせてください!!!!」
必死に続行を訴える声が、私達が座るベンチまで聞こえてくる。駆けつける救護員に囲まれる琴音ちゃんから後ずさりをしたが拳を強く握り締めて、そして私達の方に視線を送った。薄色の儚い瞳に涙が溜まっていた。
「・・・ちょっとみんな。泣かないでよ。」
が泣いている理由を把握した女子テニス部の部員みんなも、一斉に泣き出す。私の視界も歪んできた。琴音ちゃんの泣く声が聞こえる。
「審判。」
重い口を開いた部長の声はしっかり芯が通っている。そんな彼女の背中を此処に座る幸村君や男子部員が支えるように見守っていた。
「この試合、棄権します。」
立海女子の決勝進出がなくなった瞬間だ。
シングルス1でが勝っても、総合的に3−2で私達の負け。コートで泣き叫ぶ琴音ちゃんの声が胸にズキズキ突き刺さる。今、この会場で一番辛い思いをしているのは、彼女。他の誰でもない。
「立派だったぜい。」
丸井が応援席で泣きじゃくる麻紀ちゃんの頭を摩って、お疲れさんと言った。
「弦一郎!」
シングルス2の試合がそんな形で終わり、私達のところにが駆けてきた。彼女は、真田君の姿を見つけて彼を名前で呼んだ。
「琴音と病院に着いていってあげて。」
「分かった。」
真田君が立ち上がって、の方へ歩いていく。彼女はまだ泣きたいのを我慢している。目から涙が零れないように、気丈だった。真田君が、そんなに彼の帽子を被せて「泣くな。」と言う。彼に言わせてみれば、我慢の涙も泣いているに等しかった。2人のやり取りを見ていた女子部員が、より一層泣き始めた。
「俺も、君の泣くところは見たくないな。」
幸村君がのサングラスを外して、目に溜まった涙を指で掬う。その目の前で、同じく涙を堪えていた茉莉亜がハシタない声を上げて泣き出した。
「ったく泣いてんじゃねーよ、馬鹿脇!」
「うっせー!!放っとけェェェェ!ワカメの癖にぃぃ。」
茉莉亜に泣くなと言う赤也君は、彼女に負けないくらい号泣してる。人のこと言えないじゃん。そんな2人に由里亜が便乗して3人の辺り一帯がおかしな慰め合いになっていった。
「私がシングルス3を取っていれば・・・。」
「春希さん、団体戦で個人が責任を問われないのと同じように、負け試合が総合結果の良し悪しを決めることもありません。あなたのせいと思っている人間はいませんし、あなたがそう思うことも間違いです。」
「・・・柳生。」
涙濡れする立海の応援現場に、観客からは拍手が送られている。担架で運ばれている琴音ちゃんはさっきまでの取り乱しが嘘だったかのように、いつもの琴音ちゃんに戻っていた。
「すぐに戻ります!」
こちらに手を振る彼女。悲しさを紛らわすために明るく振舞っているのかと思えば、彼女は本当に強い子だと思わずにいられない。自分は辛くて仕方ないはずなのに、私達が泣いているのを見てそれを励まそうとしれくれる。私はそんな副部長に拍手を送った。
「はいはいはい。みんなー、泣き止んで下さーい。」
パンパンと応援用のタンバリンを鳴らして部員の涙を沈めにかかったのは、マネージャーの愛美ちゃんだった。
「10秒以内に泣き止まない子にはポカリぶっかけマース。リコちゃん準備OK?」
「はい!!ホース設置完了です!発射、行きます!誰からですか!?」
「部長からいきますか。さん、時化た雰囲気出されちゃ困るよ。今年はこれで終わりだけど、私達には来年があるんだから。今日から来年に向けて特訓でしょ?じゃ、カウントいってみよー!」
「ちょ、ちょっと愛美ちゃん。私これから試合で・・・。」
リコちゃんにホールを向けられたが、慰めに立っていた幸村君の背中に隠れる。部長にしては珍しく慌てていた。愛美ちゃんの発言・行動にビックリして彼女の涙は引っ込んでいたけれど、マネージャー律は容赦なかった。
「リコ、発射!!!!!!」
「了解です!!!」
ぶしゃあああああ!!!!
「・・・・。」
「・・・・なんで俺まで。」
顔面と上半身にポカリを浴びて、放心する彼女と彼女が盾にしたあまりトバッチリを食らった幸村君が、全国から終結した観客から笑い声を浴びせられた。もちろんその後、泣いていた全員がポカリシャワーに遭い更に笑われたことは言うまでもない。
『5分後にシングルス1の試合を開始します。綿貝選手、選手は準備をお願いいたします。』
が濡れた長ジャージを脱いで、半袖短パンになった。急いで日焼け止めクリームを塗る彼女。伸ばす脚が、長い。
「15分で終わらせてくる。」
先ほど幸村君が取ったサングラスを再び掛け直した彼女が、今度は笑みを残してこの場を去っていく。レッドローズがコート上に登場すると、今日一番の盛り上がりを見せた会場。そしてその天才的な技術に、声を上げることを忘れてしまう観客。データを取らずに、ペンを置いたまま柳君。
6−0の1ゲームに彼女が要した時間は、わずか13分。
去年の槙野先輩のシングルス3と並ぶ、大会記録だった。
全国大会後半でした