男子の準々決勝が行われる日、部員を残して長妻先生と男子の会場へ足を運んだ。目的は立海男子の応援ではなく、他校のプレイ観察。昨日の夜、長妻先生に誘われたのだ。単純にテニスの試合が見たかったのだと思う。男子のプレイスタイル研究も悪くないなと部員の調整を琴音に任せ一つ返事で着いて行くことにした。彼女達は練習メニューが終わったら、男子の応援に行くと言っていたからそろそろ練習場を出た頃だ。帰りはみんなと合流して帰ろうか、先生奢りの行きのタクシーで頬肘をつきながら熱いアスファルトを眺める。込み合う交差点の信号で足止めされている間、明日の準々決勝のことばかり考えていた。
「人、人、人。」
始めて赴いた男子の会場は女子の会場よりはるかに盛り上がっていた。耳栓が要る。立ち止まり話す人間の声、スピーカーから流れる声、そして歓声、全てが耳に障る程に大きい。長妻先生の隣でミュージックプレイヤーのイヤホンをするわけにもいかず、他の事を考えてこの騒がしさを除外することを試みた。真っ先に頭に浮かんだのは1学期に行われた壮行会で、セーラームー○のコスチュームを着て派手に体育館内に登場した真田の姿。『メークアップ!』ノリノリで踊る彼を思い出して炎天下、脱力した。
「きゃー、がんばれェ!!」
それにしても女の観客が多い。立海の試合会場がどんなことになっているのか、何となく想像がつく。話の種に後で見に行ってみようか。予定に無かった訪問だけれど、せっかく来たんだし彼らのところに顔を出していこうと思った。最後に会ったのはかれこれ4日前。学校では毎日顔を合わせているから、2日も間ができるとずいぶん会ってないように感じる。
同じ学校の同じ部と行っても、男子と女子の全国大会会場は離れていて女子が男子の所に行くとなると公共の交通機関を使わなければならない。この間の宴会のように男子が私達のところに来る時はチャーターしたバスで移動するのだ。遠方公式戦には女子にもバスを出せと次の部長会議で幸村に申し立てるつもりだ。交通費は自費、そう頻繁に移動していては各々の負担も重なるし、何より移動中に部員が『暑い』と煩い。来年はクーラー付きのバス、絶対。
「崩れる。」
声を上げてラケットを振りぬく選手のフォームが歪んでいる。
男子のテニスと女子のテニスでの大きな違いは、パワー。繊細な技術で勝負する女子に比べ、男子は一打一打に重みをかけてボールを相手のコートへ放ってくる。先に折れたほうが負け。うちの男子で言えば仁王が良い例だ。軽く返している様に見えて、彼の球はすごく重い。その仁王が重いと思うボールを打つのが真田と幸村。幸村とは直接打ったことがなから、彼の仕掛ける圧力がどの程度の物なのか分からない。今度柳に頼んで算出してもらおうか、いつか彼と戦る時が来るのならその時に使えるデータが欲しい。
テニスとは力勝負ではないけれど、相手が力を持ってくる以上、それに対応できる力を自分自身つける必要がある。
「うわー、このままじゃ捻る。」
腕や肩にかかる負担は、女子のテニスに比べ格段に大きい。
私の独り言に耳を傾け相槌を打つ長妻先生の瞳は柔らかく、穏やかだ。円らな瞳が聞いたこともない名前の学校同士の試合を見つめている。
「活躍されていた頃のこと思い出されますか?」
先生は一度目を丸くして私を見た。私が知っているのは予想外だったようだ。
「・・・そうだね。もう何十年も前の自分と、今コート上で走り回っている彼らを重ね見てしまっている。」
「引退された理由をお聞きしても?」
「怪我さ。プロになって怪我をした。あのころは今と比べて医療技術も低かったし、リハビリなんて無いに等しかった。医者にはもうラケットを握れないだろうと言われたよ。」
先生の『医者』という言葉で思い出したのは、今どこに居るかも知れない母親の存在。
「スポーツで金を稼ぐために高校にも大学にも行かなかった時代だ。あの時は医者の宣告に目の前が真っ暗になった。」
患者にとって、医者の発言は絶対だ。
「テニスなんて言葉は聞きたくないと思った頃もあったけどね。去年道明寺が立海に女子テニス部を作って、私のプロ時代を知る校長が顧問にと勧めてくれた。嬉しかったよ。」
長妻先生がプロテニスプレヤーだった事実を琴音は知らないと思う。先生は普段の部活に顔を出さない。全て私達に任せているから、何もしない顧問だと部員が思うのは無理ないことだ。でも、私は先生が練習に顔を見せない理由が何となく分かるからどうしてもこの人の見方でいたくなってしまう。
「コートで待ってます。先生と打ち合いできたら、みんな喜びます。」
「・・・打てるかな?」
「打てますよ。」
打てなかったら最初からやり直せばいい。
これは私の自論だけど、先生が女子テニスコートへ来なかった理由は、またテニスをしたくなる自分が怖かったから。テニスにのめり込んでしまうのが怖かったんだ。彼の腕は完治しなかったと聞いているから、本気のテニスは認められない。
けれど、穏やかな気持ちでテニスを『楽しむ』ことはできるはず。部活の顧問として、部員と打ち合う中で、きっとこの人は第二のテニス人生を見出せる。
目元と口元に皺を作るこの先生が送ったプロ人生は短かった。でも、その数十年後に生まれた私が、記録で知ることのできる彼の功績、そして進退。それは文章として、現在まで残っている。スポーツ関連の記事が読むことのできるオンライン図書で見つけた相対的な新聞の見出しに目を留めた、それが長妻先生のプロ時代を知った瞬間だ。
『怪我!長妻!引退か!?』
テニスしか知らない幸せな人生(とき)を終える瞬間は誰にでも訪れる。
『越前南次郎がテニス界から忽然と失踪!!』
自分でその時を決めることのできるプレイヤーは幸せだ。
『私達スポーツ医が選手にしてあげられることは、治すか、捨てるか、その2つに1つしかないの。現実ってね、残酷よ。』
タバコに火をつけながら、酔った母は馬鹿にしたように笑っていた。選手を馬鹿にしていたのか、それとも自身に笑っていたのか、私には分からない。冷たい人間だと思った。医者なんて、母なんて、酷い奴らだ。本当のことを率直にしか言わない彼女は言葉を選ぶことを知らない。彼女のそんな態度が患者の心を傷つける。人が感じる心の痛みを何とも思わない人間が、人の身体を治す仕事をしているなんておかしい。
世界でも著名なスポーツ医として世界中の名立たるスポーツチームと契約しては、飛びまわっている母。父さんや私達兄弟を放ったらかしにして、仕事ばかりしている彼女が私はあまり好きじゃない。血の繋がった親なのに、私は彼女との関わり合いがこれでもかという程ない。
子供を生むだけ生んで、日本の祖母に私達兄弟を任せた彼女。祖母が死んだときは葬儀にすら顔を出さなかった。『忙しくて行けそうにないわ。』それが毎度の断り文句。
『あの3人だってもう小さくないんだから、自分たちで何とかできるでしょう。』そう父に漏らしていたという。要約すると、私達兄弟が何時何処で何をしていても彼女には関係ないのだ。一番大切なのは仕事であって、家族じゃない。
そうゆう生き方を否定するわけじゃない。結局人生は自分の物だから、好きなように遣えば良い。
でも子供は作るべきじゃなかった。
ワークホリックで普段は子供の存在も忘れているような女だけれど、私達のことを思い出す瞬間はあるらしく、何の前置きもなく電話を掛けてきては私達の声を聞きたがる。
先週は朝の4時に、家の電話が鳴った。
彼女は単純に身勝手すぎる。
「ぎゃあああ!幸村さん!!!!」 「ほんま噂通りのイケメンやん!」
「かっこいいー!!!」 「こっち向いてェェ!!!!」
立海の試合会場は、予想以上に凄いことになっていた。丁度幸村の試合が終わろうとしている時、長妻先生と歩いてきたこの場所はテニスではなく女の戦場と化していた。叫ぶ女性、手を振る女性、幸村にカメラを向ける女性、様々な人達がコートにいる彼に熱をやいている。こんな轟音のような騒がしさをシャットダウンして試合に集中している彼は、すごい。
「・・・何あれ。」
I LOVE 幸村、と描かれた横断幕を見つけて顔を顰めた。広げる女の子達が着ている制服はどうみても立海のものじゃない。全国から彼の為に集まった女子たちが、その嬉しさをコートに一番近いベンチで爆発させていた。
「I LOVE 幸村!!I LOVE 幸村!!」
応援コールが非常におかしい。
「先生ー!ー、こっちこっち。」
立海の部員や保護者が座るベンチに奈々や琴音の姿を見つけて腰を落ち着ける。試合を終えた男子のレギュラー達は幸村の試合を見て何を思っているのだろうか。表情が険しい。
「もアレに混ざってくれば?幸村君喜ぶよ。」
アレ、と指差された先にはさっきのLOVE幸村集団がいて、私は冗談でしょと口元を引きつらせた。100万円もらっても、あれはやりたくない。
「明日の私達の試合も、こうなるかも。」
「・・・サンシャインゴールドが出る準々決勝じゃ、そうなるね。」
女子テニス界のアイドル、浜野奈々の試合を見るために集結する芋たちはこの2試合、確実にその数を増やしている。明日は準々決勝、決勝を見越して集まるファンの数は想像できない。去年の全国大会では毎試合後、彼女がファンに貰ったプレゼントを持つのを手伝った。人形とか、花とかまともな物が大半を占めていたけれど、スコートや彼女の写真を切り抜いて作った個人的ファンブックらしきものもあって、ファンって少し気持ち悪いなと思った。貰ったものをどうするのかと聞けば『売るの!それか児童保護団体に寄付する!残りはゴミ箱ね。』そう笑顔で彼女は言う。貰ったものだ、その行く先をどうこう言うつもりはないけれど、ファンに悪いと思わないところが彼女の性格。明日の準々決勝のユニフォームに『この子に物を与えないで下さい』って紙を張らせようか真面目に考えた。
「私だけじゃないよぉ。レッドローズファンだって人数すごいじゃん。」
そういえば去年はその男たちのせいで大変な目にあったっけ。試合後にサインを迫られ、握手を迫られ、抱擁を迫られ、外国人の観客にキスを迫られ。男と握手なんて冗談じゃない、と玲を盾に逃げに逃げ、全国大会会場だった宇都宮で迷子になる始末。
『。お前、分かってんだろうな。』
餃子アイスクリームを片手に街中で会場を探している時、脇に止まったベンツから拳を握って降りてきた槙野先輩に、その日は深夜までシコタマ怒られた。
「ただいま。」
頭上から注ぐ、会場の主役の声。汗一つ掻いていない幸村が私の髪を無駄にグシャグシャにした。反射的に「おかえり。」と言えば、奈々がヒューヒューと声を上げる。何の口笛なのか分からない。バサバサになった髪を手串で梳かして、後ろに座っていた柳に結んでもらう。首筋を抜ける風が気持ち良かった。
「明日の首尾はどうだ?」
「上々かな。」
「応援には行けないが、良い報告を待とう。」
できたぞ、柳が結んでくれた髪はなんだか生け花のようになっていた。
「担架だ!救護係!!!」
みんなと旅館へ戻る途中、会場の正門に一番近いコートで怪我人が出たところを通りかかった。審判の声に足を止めた私達が見据える先には腕を抑えて、うめき声を上げている体格の小さな男の子が救護係を待っている。少年に駆け寄るベンチコーチ、彼の名前を呼んで心配する仲間、現場に漂う緊張感に手で口を覆う観客と、手を事務的に動かす救護員。
「駄目だ、救急車を呼んでくれ。」
救護員の長の指示に、事が大きいと判断した審判が試合を中断するとシンッ、と会場が静まり、人が啜り泣きを始めた。
「うちは怪我人もなくて幸いね。」
マネージャーの愛美ちゃんが、本当に安心したように言う。そして「あの子、早く良くなるといいね。」と観客同様涙を溜め始めたリコちゃんの頭を撫でた。
怪我、
選手生命。
今まで、まともに考えたことのなかった中学生の私には早すぎる言葉。
向き合う切掛けになったのは長妻先生の話と、この年のこの全国大会だった。
準々決勝で圧勝した私達が駒を進めた4日後の全国大会女子準決勝。
そこで起こる事故を予想できる人なんて、この時は死神くらいしかいなかった。
私がテニスをする限り、絶対に忘れられないその事故の責任者。それは他の誰でもない、
私だった。
ヒロイン母登場