「シダモとアールグレイをお願いします。」
「かしこまりました。お食事はいかがしますか?」
「フルーツケーキとミルフィーユを。」
「はい。ではご注文を確認させていただきます。」
昼休み、うちのクラスを初めてが訪問してきた。「おおっ!F組の!」ドアに凭れて騒いでいたクラスメイトが上げた声に、昼休みを教室で過ごしていた生徒の注目が集まった。その男子やドアの近くに座っている女の子達に声を掛けられる彼女は何を聞かれているのか、やんわりとした表情で群がる集団からの質問を捌いていく。
「今日はお一人でしょうか。」
普段、彼女は細野さんと一緒にいる。まさか細野さんしか仲良い子がいないわけじゃないだろうから実際クラスでもずっと一緒なのか分からないけれど、2人は常に隣り合って歩いているイメージがある。A組やB組はF組と階が違うから誰かに会いに行こうと階段を上り下りしない限り、上階クラスの同級生には滅多に会わない。麻紀ちゃんが「大きな学校っていろんなことを置き去りにしてくよね!」って小説家のような比喩を言ったことがある。人間が知りあう機会を作れずに、あるかもしれない未来の関係を始めることもできない、そう言うことが言いたかったらしい。
今日、は1人でA組まで降りてきた。
「麻紀ちゃんに用かな。」
隣の席で裁縫道具を広げていた彼女が自分の名前を聞いて、俺の方を向く。その先には部長のがいて、その姿を見つけた彼女は勢いよく立ちあがって跳ねて行った。本当、うさぎみたい。
「ちゃぁん!抱っこー!」
麻紀ちゃんは抱っこされるのが好きな子だ。女子テニス部では特に細野さんとに。男子部員では仁王が「わしのクマ人形じゃ。」って抱えて歩いている。
「マフラー進んだ?」
「んんん。冬には間に合うかなぁ。もう2週間もやってるのに3段しか進まないの!棒編みって難しいんだぁ。甘く見てたよ。」
の細い腕が麻紀ちゃんを抱え上げている。まるでお母さんに『高い高い』をしてもらっている子供みたいだ。そんな光景を見ている柳生の頬が緩んでいた。
「精市君!ちゃん連れてきた!」
机の上に広げた図書館で借りてきた画集の絵に惹き込まれていた。顔を上げると柳生の隣に立つがいる。制服姿はやっぱり部活中と大分違うな、そんなことを思った。
「会いに来るなんて珍しいね。」
「部活後、話したいことがある。これ。」
これ、と差しだされたのはスイーツの雑誌。お勧めカフェ特集と題されたページにケーキの写真がこれでもかってくらい敷き詰められている。
「行きたいの?」
「行きたくないの?」
質問を質問で返してきたに笑った。わざわざ会いに来たくらいだからよほど行きたいんだろう。「いいよ。」そう一言返事をした。
「ちょうどいい。俺も話したいことがあったから。・・・これのことで。」
机の横に置いてあったラケットバックからレギュラージャージを上げて見せると、「げっ。」と声を出した。『そういえばそんなこともあった』と言いたげな顔をしてる。彼女のとなりで状況を分かっていない麻紀ちゃんが首を傾げた。
「自分のが戻ってきたから借りてたジャージは返すよ。」
何も言わない彼女に赤いレギュラージャージを渡した。それを受け取ってA組を出て行った彼女の背中を頬肘をつきながら見送る。部活後ってことは夜か。今日の練習は女子に合わせて早めに切り上げようか。
話が拗れなければいいけど。
「幸村君、レディーを責めすぎるのは良くありませんよ。」
事情を知る柳生に釘を刺されたけれど、無視した。
が行きたがっていたカフェは学校から少し離れていて、電車で3駅移動した。
別にいつもと何も変わらない街の喧騒、風景。違うことがあるとすれば学校からこのカフェに入るまでの間、との会話が恐ろしく少なかったことくらい。最寄り駅から10分、此処までの道を歩いた。彼女に歩幅とペースを合わせている自分に気付いた。ゆっくり、綺麗に歩く彼女はやっぱり女の子だな、と当たり前のことを再確認した。
到着したカフェはすごくレトロな感じで、大人が数人座っていた。全然混んでないね、って話していたら店員さんが4人席を使わせてくれた。ソファーになっている2人掛けに普通の椅子が2人用。
「隣、来なよ。あんまり大きい声で話したい内容じゃないでしょお互い。」
椅子に学校指定のカバンを置いて、ソファーに掛ける。目の前にはモザイクのガラス。その中で蝋燭が揺れている。客の中にはアルコールを頼んでいる人の姿も見える。制服で来るところじゃないな。
「どっちから先に話す?」
「どうぞお先に。」
話を邪魔されるのが嫌だから頼んだものが揃うのを待った。本当に、話が拗れないといい。は先制権を俺に譲って軽い溜息を吐く。そして何でもかかってこいと胸を張った。
「君が持っていったジャージを一昨日絵里が返しに来た。」
「そうだね。私があずけたから。彼女会場まで行ったの?」
「ああ。」
「そう。」
「君だから渡したんだ。分かってる?」
勝ちとりに行かないと、3年テニス部に在籍しても触ることすらできないレギュラージャージ。それはプレイヤーにとって、とても大切な物で替えがきかない。自分にいくら実力があって、そんなもの持っていて当たり前だろうと言われても譲れない。
同じプレイヤーが他人のそれを関係のない人間に渡す、そんな話聞いたことない。
少し鋭くなった俺の視線と口調に目を細めたが俺の紅茶からティーバックを上げて口を開く。微動だにしない睫毛はジッとカップに向けられていた。
「・・・分かってる。」
横顔が少し悲しそうな顔をしていた。
「彼女の肩を持った理由は?」
「久賀さんがずっと幸村のことを見ていたのを知ってた。あなた達が別れて少ししてからかな。身を隠してテニスコートに立つ幸村を見てた。」
知らなかったでしょ。頬肘をついた彼女の言葉に頷く。
「謝りたいって泣いていた彼女を見つけて、勇気を出すきっかけになればと思ってジャージを預けた。」
「それだけじゃないだろう?君はめんどくさいことに自分から手を出す人間じゃない。」
「ずいぶん見透かしてるね。」
「知り合ってもう半年だ。一緒にいる時間もそれなりに多いしね。」
君の事は何となく分かってきた。
そう言う彼は全くと言っていいほど笑っていない。
「分かってきたからこそ君が絵里に手を貸した訳が理解できない。」
怒っているのか、いないのか分からない。さっきまで威勢がいいと思っていたら今度は表情を歪めて哀しそうに言う。私の行動を理解することに時間なんて割かなくていいのに。
責めるだけ責めて、怒ればいいのに。
一度目を閉じて、開く。この話を幸村にこんなに早く話すことになるとは思っていなかった。柳にも話せたんだ、幸村に話せないわけはない。一口コーヒーを飲んでから話し始めよう、そう思ったけれどカップの取っ手を取ろうとする指が震えて、コーヒーは諦めた。
手を膝の上に置きなおして俯いた。何でだろう、顔を上げられない。
「久賀さんの泣き顔が、知り合いに似ていたから助けたいと思った。」
知り合いなんて他人行儀な言葉で表せる存在じゃない。もっと近い大切な人、だった。
「・・・私の付き合っていた女性(ヒト)に似ていたから。」
幸村の表情は見えない。彼は私に顔を向けているけど、私は下を見るばかり。たまに視界に入る店員の姿。それにテーブルに置かれたケーキとコーヒー。他にどこを見ていいのか分からない。カフェで流れる洋楽だけが優雅にこの空間を行きかっている。
「女の子?」
「そう。笑ってもいいけど、女子校では珍しいことじゃない。」
「笑わないよ。」
へぇ、笑わないんだ。変なのって笑ってくれた方が楽なのに。
「杉下神流っていう子と付き合ってた。」
向かい側に置いたバックの中、手帳を探って彼女が移った写真を見せた。私が持ってる彼女の最後の写真だ。
「可愛い子だね。」
確かに久賀さんといい、顔は幸村の好みの部類に入る子だと思う。返された写真を見た。手帳の中に封印して、見ないようにしていた写真。大好きな人が笑っている、宝物。
「私が壊してしまった彼女に、久賀さんが似てたから守りたいって・・・勝手に思った。だから手を貸した。それがさっきの質問への返答。」
「・・・壊した?」
そう、壊してしまった。
彼女の心を、ズタズタにしてしまった。
「私は・・・月ヶ丘でイジメに遭ってた。」
もう知っているだろうけれど、そこから話さないと話がぐちゃぐちゃになるから確認のために言葉にした。幸村が反応を示さないのが怖かった。
「昨日、先輩達に叩かれるところ見たよね?あんなことが日常茶飯事だった。最初はさ、可愛いイジメだったんだ。物隠されたり、部活やめろって脅されたり。でもエスカレートしていった。急激に悪質になっていった。部室からロッカーがなくなったのを皮切りに下駄箱にカッター仕掛けられたり、クラスの黒板に名指しで「死ね」って落書きがあったり。被害が私だけなら我慢できたけれど、それだけに留まらなかった。」
一呼吸置くと、幸村の手が私の左手を手繰りよせた。大丈夫だよ、と言われている気がした。
「私をかばった玲や奈々、最後には付き合っていた神流まで巻き込まれた。」
あのことを思い出すだけで、常に吐き気を催す。
指先から体温が消えていく。カフェの冷房がすごく冷たい。あの日はもっと寒かった。冬の公園、積もった雪を見に行こうって出かけた夜。誘ったのは私だ。
「私さ、男って好きじゃない。力任せになんでもできるから。」
気持ち悪い。
様子がおかしいことに気付いた店員が「お客様?」と声をかけてくれた。大丈夫ですと無理に笑って追い返した。自分の声が震える。ゆっくり顔を上げて、幸村を見ると破顔した彼がいる。
「・・・まさか。」
彼の想像は間違ってない。
昨日と同じ様に幸村の腕に包まれた。払いのけることはしなかったけれど、本当に吐いてしまいそうで彼の胸に手を当てて、ちょっと待ってとそれを押した。
話さなくていい、と泣きそうな顔をして言われた。
男の人のあんな顔、見たことない。
でも、話さなくちゃと思った。
「・・・先輩の知り合い。何度か見たことある人達だった。」
「私は強姦だけで済んだけど、神流はそのあと暴行も加えられて大怪我した。」
「事情を話しても信じてくれない教師には仕掛けた人間の家族からお金で圧力がかかっていたんだと思う。」
「お金ってすごい。犯罪をあんなにも簡単にもみ消せる。」
「あの子は何にも悪くないのに、私が好きな人っていう理由だけで狙われて・・・。」
「私の目の前で男に戯ばれてる神流は泣き叫んでた。」
「久賀さんが泣いてるの見て、神流と重ねて・・・助けてあげたいと思った。」
「幸村が怒ることは、もちろん覚悟してたけど。」
ここまで言うのに何分費やしたか分からない。すごく吐きそうな衝動と、今話さないでどうするって責務感の繰り返しが襲う。何とか息を吸い込んで、吐き出して。自分を落ちつけて、泣かないように。
柳に話した時はあんなにも、雑務的に淡々と言えたのに。
今日は酷い。
「ジャージ、ごめん。」
「・・・。」
「本当に勝手にごめん。」
「。」
彼の手に顎を持ち上げられて、下げていた目線が上がる。私はとても情けない顔をしていたと思う。そんな私の頬を両手で包み込む幸村が顔を寄せる。その綺麗な目が、肌が至近距離にあった。鼻と鼻がぶつかる。
「絵里のことは怒ってないから謝らなくていい。」
「ただ、理由が聞きたかっただけだ。」
キスするかと思った。
それくらい近くに唇があって、優しく頬を抱かれていた。
吐息がかかるくらいに近い距離に彼女がいて、手にするその存在の全てが愛おしいと想う反面、話をするがじゃないようにも感じた。
『私さ、男って好きじゃない。力任せになんでもできるから。』
ズキン、その言葉を聞いた時心臓が一度大きく鳴った。肺が伸縮性を失ったかのように息が詰まって苦しい。彼女が淡々と話す内容を想像しようとする自分がいた。でも、絵にならなかった。彼女が他の男に抱かれてる姿なんて、考えられない。でもそれは実際にあったことで、彼女が体験したことだと思うとを抱きしめずにいられなかった。
『無理に聞くような話ではない。』
と仲の良い柳が俺の知らない彼女のことを多く知っていることには大分前から気付いていた。柳のを見る目は恋愛感情ではないけれど、とても暖かい親類のそれに似ている。氷帝の跡部もそうだった。
『の昔の話聞いてみたいな。』
彼女がイジメにあっていたことすら知らなかった頃、柳にそんなことを言った。彼女をもっと知りたいと思った。そんな俺に柳が真剣な眼差しを向け『やめておけ』そう言った。
彼女が男を芋だと言う。男の身体に興味がないと言う。
球技大会、バレーボールで優勝したF組のメンバーにクラスメイトがみんなして飛びついた。はしゃいだクラスの男子に触られ、本気で体育館から逃げ出したことがあった。
先輩に告白されている現場を見たときに仁王が漏らした『でもあいつは・・・』という言葉。男と付き合うことはない、そう続けて言いたかったんだ。彼は浜野さんから全てを聞いていた。
絵里と付き合っていた時に、一度女子テニス部に圧力をかけた。雨の中でが叫んだ『触らないで!』というあの一言は、彼女が感じた俺からの言葉の暴力から。
「ごめん。」
唇をそのまま重ねてしまいたい衝動を振り切って、彼女の首筋に顔を埋めた。たかが触れるだけのキスと言えど、今手を出したら俺は彼女の身体を奪った奴らと何にも変らないと思った。
「辛いことを話させて悪かった。」
「・・・何言ってんの。私が決めたんだから。」
謝らないでよ。が遠慮がちに俺の背中に手を廻す仕草を感じる。制服の上から触れる手がとても冷たかった。
ふと、周りの客の視線がこっちに向いていることに気がついて彼の顔を上げさせた。「よしよし」と頭を撫でると喧嘩した恋人同士のように見えていたのか、数メートル先に座るOLらしい女の人達が嬉しそうにしていた。「仲直りしたみたいだね。」とこっちまで声が聞こえた。
「生クリームが気持ち悪い。」
ミルフィーユを注文したけれど、一口食べてフォークを置いた。大好きな生クリーム、自律神経が催した吐き気のせいで今日は胃に流せそうにない。
「あげる。」
綺麗なお皿に乗せられたそのケーキを幸村の前に贈呈すると、彼はケーキに向かい迷惑そうな顔をした。
「2つは多い。こっちなら食べれる?」
彼がフォークを入れていたフルーツケーキを寄こした。確かに、これなら生クリームもないしサッパリしてるからいけるかも。
「・・・美味しい。此処まで来た甲斐があった。」
そうだね。そんなことを話した。さっきまでの会話が嘘のように消えて、戻って来ない。安心してソファに身を任せ、冷めきったコーヒーを口に運んだ。同じように冷めた紅茶に顔を顰める幸村に苦笑した。
「もう一杯頼もうか。」
「ねぇ、久賀さんのこと泣かせてないよね?」
「ちゃんと話をしたから心配しなくて良い。それより君のアドレスを聞きたがってた。お礼がいいたいって。」
カフェを出て、歩く街が週末の訪れを醸し出している。駅に向かいながらずっと気になっていたことを尋ねてみた。心配ないよ、って言う幸村の表情が明るかったから「ああ、上手くいったんだ。」って安心した。
「教えてあげて。」
「絵里の連絡先はもう携帯に入ってないから無理。来週あたり顔を見せると思うよ。」
ええ?
連絡先消したの?
「何で。上手くいったんじゃないの?」
驚いて、立ち止まった。
「何が?」
「久賀さんと復縁したんじゃないの?」
「・・・って意外と馬鹿だよね。」
呆れたように身を引いた幸村。いや呆れたようにじゃない、呆れてた。
馬鹿なんて景吾と真田以外に言われたの何年ぶりだろう。
「彼女がいるのに他の子と2人でカフェに行くなんて真似俺はしないよ。」
赤也や仁王ならやるだろうけど、と言った。
「絵里とは一度終わったから、もう二度と始まることもない。」
へぇ、堅実。
3月、女子テニスコートで初めて幸村と会った時私は彼から笑顔を向けられた。今の笑顔じゃなくて当時の笑顔。探る様な、見下すような、すっごい変な笑顔。キザな、と表現してもいいかもしれない。
きっと兄さんと同類の人種だと思った。
女の子で遊んでそう、そんな印象を受けた。
でも、実際は真っ直ぐな子だった。
久賀さんに・・・、好きな人に好きなことを行動で表現できる人だった。
幸村って最近絶滅危惧されてる好青年なんだねって褒めてあげた。なのに「浜野さんの言う通り自分のことはビックリするくらい疎いね。」って『馬鹿』に続いて『疎い』って言葉を浴びせられる。
なんか可笑しくて、声を上げて笑った。
「俺に好きな子ができるまで部長会議は毎回あのカフェでやろう。」
そんな提案に頷いた。
「行こう。」
最近では当たり前になってしまった手を握る行為。
私よりも大きい手に包まれる自分のそれに目を向けた。
そっか。いつかはこうやって一緒に歩けなくなるんだ。
あのカフェに幸村と行けなくなる日が来ることを考えたら、彼と並び歩く女の子を嬉しく思う一方で何だか少し置いていかれた気がした。
引きずる過去は誰にでもある
Music: 優しい赤(福原美穂さん)