性懲りもなくテニスコートに向かい足を動かす自分に馬鹿、と吐く。放課後、毎日向かうテニスコート横の桜の群集地帯。木の陰に隠れて、あの人を見つめる。山吹色のジャージを肩に掛ける男性(ひと)。
桜の木に手を置いて、額を預けた。
私は何をやっているんだろう。
浮気をして終わった彼との関係をこれほど後悔することになるとは思わなかった。
いつも笑いかけてくれたのに、私は彼を信じきることができなかった。
精市君にはテニスだけが真実な気がして、毎日部活に行く背中を送るのが寂しかった。
そんな寂しさを一時だけ紛らわすために作った高校の先輩との関係。不純な関係は一回だけ、そう自分を甘く扱ったのが全ての間違い。先輩にとって私は遊びじゃなかったから。私が望んでも関係を終わりにさせてくれなかった。「不味いな。」そう思っていた矢先に精市君が全てを知って、本当に大切にしたかった方の恋が終わった。
120%の自業自得。
『別れてくれ。』
彼が出て行った教室。
イヤホンから流れるラブソング。
生徒手帳の中に入れたツーショット写真の中の私達。
次は美術館に行こうねって約束した最後のデートの記憶。
全部がパキンと音を鳴らして崩れていく。泣きながら『ごめんね。』と叫んだ。本人には聞こえていなかっただろう謝罪。私を大切にしてくれた人を裏切った自分が許せなくて、何度も本人にちゃんと謝らなくてはと来るようになったテニスコート。
桜に身を隠して、彼を見ているだけの自分。
理由ははっきりしてる、私には一歩前に出て彼と正面から向き合う勇気がない。
ポツリ、ポツリ。
滴が空から降り注ぐ。テニスコートにいた男の子達がフェンス内に散乱したボールを大急ぎで拾い、ネットを畳み始めた。レギュラーは真田君の号令に集まり、短い集合の後部室へと消えて行った。
ああ、今日も無理だった。
「・・・ッう。」
情けない自分。
フルフルと震える腕。流れる涙は頬を伝う雨に混じって地面へ落ちて行く。嗚咽を口で抑えながら、地面に崩れ込んだ。水たまりに思いっきり足を突いた。制服のスカートも下着も水浸し。
なんて惨めなんだろう。
強く握った拳を何度も桜の太い幹に叩く。自分が大嫌いで仕方がない。
数発、硬い木に握り締めた手をぶつけて、最後に渾身の力を絞って振り下ろした腕が衝撃を受ける前に掬われた。
パシっ。
横から視界に入ってきた白い手が、汚れた私の手を掴んでいる。
降り注いでいた雨が一瞬にして止んで、水溜りに青空が広がった。
「・・・、さん?」
雨が止んだんじゃない。水面に移ったのは傘の色。
薄紫の傘を手にするF組の彼女が、悲痛な瞳を向け私の頭上にその傘を差しだしていた。
濡れたのも衣服は全部脱がせて、ロッカーに入れてあった予備の指定ジャージを渡した。私のサイズは彼女に大きすぎたらしく、着替えを済ませた久賀さんはズボンの裾を何度も折り丸めていた。
「謝りたい。許されたいなんて思ってないんです。」
「勝手に謝罪を押し付けて、自分が少しでも楽になりたいだけなのかもしれない。」
「自分は何て勝手な人間なんだろうって・・・。」
数分の沈黙の後、自発的に泣きながら本音を話し始めた彼女は相変わらず震えている。震えさせているのは寒さじゃない。
彼女が男子テニスコートを遠い目で見ているのに気がついたのはいつだったか。考えてみるともう2ヶ月くらい前かもしれない。その視線が映している対象は幸村だった。
私が関わることじゃない。
これは彼女と幸村の問題だから無視しようと決めていたのに。
部員を体育館練習に送って自分もそこへ向かう道。今日もいるのだろうなと案の定、桜の木の隙間に彼女を見つけた。
久賀さんは崩れて泣いていた。
泣きはらすその横顔が、『あの子』にとても似ていた。
「あの子は『神流(かんな)』じゃない、だから首を突っ込むな」
そう自分に言い聞かせたのに足は彼女のいる方へ進路を変えていた。ここまで来て見ない振りは人間としてどうだろうとも思った。
彼女は大きく手を振り上げて、胴体ごと桜の幹に突っ込もうとしている。
反射的に伸ばした私の手が取った腕は折れてしまいそうなほどに細かった。
浮気をした代償に、負うものの重さを知った彼女を哀れに思う。
後悔から学べることは進歩でも、毎日ただ泣き続けることに意味なんて何にもないのに。
はてどうしたものか、首を捻った。
彼女の本音を聞いてしまった私がしてあげられることが一つあって。
でもそれは幸村を怒らせてしまうかもしれないことで。
脳裏を行きかうそれが私に取るか取らぬの選択を迫っている。
「ごめんなさい。」
断りを入れて本格的に泣き始めた久賀さんの肩に手を置いて、雨に目を向ける。
梅雨の終幕に追い込みをかける空。今日は止まないな。
「一つ、私が作ってあげられるチャンスがあるんだけど。」
幸村は怒ると怖いからなぁ。もしかしたら殴られるかも。痛いだろうな、彼のパンチ。
「私と一緒に勇気、出してみない?」
でも、横顔が『神流』に似ているこの子がまた笑えるようになるなら殴られるくらい安い位かもしれないと思った。
バンッ!!!!!
雨が降り、実践練習が部室ミーティングに変わった。明日の関東大会第2試合を前に部長から関東1位追加、全国大会優勝への檄がなされていた。いつもよりも強い口調の精市。機嫌が悪いわけではないだろうが、どうにも荒れている。そんな彼の雰囲気に部員の身が引き締まった。
そんなミーティングという我々にとって云わば神聖な空間に、部室のドアが暴力的に開けられる音が響いた。
そこに立つ人物は雨に濡れていた。
「ミーティング中だぞ。」
「ごめん。でもちょっと幸村のジャージに用がある。」
ツカツカと部室内に足を進める彼女は止めるなオーラを全開にしている。レギュラージャージに用とは何の話だと誰もが部長に近づく彼女を目で追った。
事情は知れぬが、怒っているようにも見える姿だった。
「?」
さっきまで部長の顔をしていた精市の表情が緩む。
「ちょっと貸して。明日返す。」
上座に座る精市が肩に掛けていたジャージを思いっきり引き上げた彼女。腕を通してジャージを着ないスタイルが好都合だったようだ。
これは代わりだ、そう自分の赤いジャージを精市に放り、またツカツカ来た道を戻る女子テニス部部長が思い切り閉めたドアの音に丸井と赤也が目を瞑った。
「何か先パイ怖くなかったすか?」
「ええ。さんには珍しく気が立っているご様子ですね。」
レギュラーがざわつく中、我関せずと渡された赤いジャージに目を細め微笑む部長がいた。
「・・・。」
その微笑が、駅のプラットホームで見た「幸村精市」の顔に似通っている。
当時、精市が久賀絵里に向けていたあの表情。が『あんな風に笑えるんだ。』そう言った瞳。
荒れ気味だった我が部長をという人物は姿を見せただけでここまで変えられる。
存在そのものが精市にとって意味のある人間ということか。
奪われたジャージの代わりにふわりと羽織られた赤いジャージから薄い良い香りが薫った。
「がここにいるみたい。」
いい薫りだ、ジャージを顔に寄せ楽しむ精市の姿を見た赤也が、その心情を悟り顔を赤くする。
以前から立てていた予想が確証に変わる。
我が部長は赤い薔薇に恋をしていた。
誰もがそんな精市の姿を見て微笑む空間で思いきり顔を顰める弦一郎。
赤也が気づいて他の者が気付かないわけがない、そんな当たり前の思考を覆す疎い人間が一人いた。
「何をやっておるのだ幸村。」
それは彼と彼女を誰よりも長く知る男だった。
Music by Stereo Hearts