氷帝学園と練習試合を約束した土曜日はテニスプレイヤーにとって最悪な天気に見舞われた。
朝6時に鳴った携帯電話。発信先は氷帝学園の小池先輩。リビングの大きな窓に目を向ける。外は吹き荒れる海風、内陸に進路を進める真っ黒な雲に地面に自身を叩きつける雨。彼女曰く東京の空はもっと酷いことになっているらしい。電話越しに雷が落ちる音が聞こえる。衝撃音に声を上げた小池先輩。私もあまりの音量に驚いて耳から携帯電話を遠ざけた。
天候のせいか電波が悪い。結局練習試合を延期することで合意して、琴音に『練習試合中止&自宅で一日マインドコントロールの練習』の旨をメールした。これで30分以内に部内連絡網が廻り、内容が全員に連絡がいきわたる。
事実上久しぶりの休みだ。
携帯をソファに放って、テレビの電源を入れると8チャンネルのニュース番組で合羽を着た天気予報士が港に立ち、マイクを握り締めていた。
『みなさん!お出かけの際にはくれぐれもお気をつけて!すッごい風です!!』
天気が悪いですよ、危ないですよと何度も強調する天気予報士。屋内でテレビを見ている視聴者よりそんな所にいるあなたのほうが危ないよ、そうコーヒーの入ったマグを思いっきり傾ける。3杯目のモーニングコーヒーが空になった。
4杯目のコーヒーを淹れていたら、暴風音に混じって玄関の風鈴が鳴る音がした。時計に目をやる。現在時刻は6時15分。
今日はずいぶん早くに兄が帰ってきた。
「Guten Morgen, meine Liebe.」
髪が少し濡れている。水滴が滴る髪はしばらく見ない間に幾分伸びていた。荷物を下ろした彼に「ただいま」とキスをされ彼の頬にお帰りのキスを仕返す。何ともない兄弟の挨拶。
「hmmm, ich hab dich so lieb! (んー、大好き。)」
一々声にしなくてもいいのに。私を抱きしめる腕の力はとても強い。
「Alles Gute meine liebe. Hier, das ist Geburtstagsgeschenk von mir. (誕生日おめでとう。はい、俺からのプレゼント。)」
「Ich dachte du vergisst schon. (忘れていると思ってた。)」
まさかと鼻で笑った兄から授かったのは桔梗色の封筒。へ、丁寧な字で書かれた封筒を開けると2人分の国内旅行券と行きつけのテニス専門店の商品券5万円分入っていた。
「Danke, das hilft mir. (助かるよ。)」
これで壊れそうなスペアラケットを代えることができそうだ。付属の旅行券は謎。一体誰と行けというのだろう。
満足そうに頷き、フラフラと千鳥足で冷蔵庫に向かう兄。中身を漁りに行ったのかと思えば、閃いたようにドアをおもいきり閉め立ち尽くす。するとギラリ、私のすぐ前に置かれたコーヒーバックを凝視する。そんな彼の不振な行動に目を細めた。
平然を装っているけれど、これは酔ってる。
「Kann ich auch ne Tasse haben? (俺にもソレ淹れて。)」
「Schwarz? (ブラックでいい?)
「Ja. Wo ist Yu? (ああ。優は?)」
「Sie ist seit 2 Tagen nicht zu Hause. Gestern bekam ich ne Email von ihr. Sie verbringt ganze Zeit an der Uni. (2日帰ってきてない。研究室に篭ってるって昨日メールがあった。)」
姉は東京の有名な大学で獣医学生をしている。日々熱心に教授や仲間と研究に没頭。最近は家に戻らないことも多い。
「Hast du Freude an der Schule? (、学校は楽しい?) 」
先に淹れた兄のコーヒーを手渡す。伸ばされた手は彼の商売道具の一つ。相変わらず綺麗だ。大きいけれど繊細、長い指に手入れされた爪。無駄なところが全く無い。左手の薬指にはめられた銀の指輪がそんな指をもっと綺麗に見せている。
「Ja, das habe ich. (楽しいよ。)」
笑って見せると、兄は嬉しそうな顔をした。そうか、と優しく頭を撫でてくれた。
その生活態度と変った趣味のせいで血縁者の私でも変な人間だとか、得体の知れない男だと思うことが多い兄。実質腑抜けた痩男だが、酔っている時は随分可愛い。
普段は態度に出したりしないけれど、私のことをすごく心配してくれているのを知っている。月ヶ丘でいじめられていた時、身体につけられた痣に真っ先に気づいたのは兄だった。
何度も、何度も、無理はしていないかと尋ねてくれた。
転校が決まったときには祝だと酒を飲まされた。『スウェーデンじゃ14歳で酒は遅いくらいだぜ?』ここは日本なんだけど、そういいながらも兄と姉と始めて杯を交わしたっけ。
瞳を虚ろにテレビを見ていた彼は「今日の運勢」というニュースコーナーで射手座を確認した後、泥のようにソファに突っ伏した。
疲れているんだ。
世間から低俗だと言われる仕事を私と姉さんのために続けている兄。妹達には少しでもいい生活をさせてやりたいって、仕事仲間の凜さんにそう漏らしたことがあるのだという。
私達の前ではお気楽で自分勝手な人間しか演じていないくせに。
熟睡モードに入った兄からスーツと靴下を剥ぎ取って毛布を二枚掛けてやる。
そのブランド物のスーツからは染み付いたタバコと、女物の香水が複数混じった微妙な薫りがした。
一日中回復しなかった空模様が午後5時になってようやく落ち着き始めた。なんだかとても寒くて1時間熱いお湯に浸かっていた。その間、関東大会のオーダーを頭の中で組み立てては破棄して。浴槽を上がるときには出来上がった組み合わせのクオリティーは上々だ。バスローブを羽織り、自室へ直行。組み合わせを忘れないようにキャンパスノートにメモをした。
ピンポーン
呼び鈴が鳴る。持っていたペンを置いて考えた、誰だろう。うちに客人なんて珍しい。家政婦の染谷さんかな?いや、彼女が来るのは日曜日の午前中だけのはず。宗教の勧誘か何かかと思いながらインターホンのモニターを確認するとそこには琴音と真田が立っていた。
受話器を上げることなく、直接ドアを開けた。この2人ならこの格好でいい。
「琴音、真田、どうし・・・。」
一度着替えに行くのも億劫で開けた扉。なのにドア前に立っていたのはこの2人だけではなかった。流れる気まずい数秒、口を開く人物は私を含め誰もいない。
「ちゃんセクシーッ!!!」
「水も滴るいい女だねぇ、我が部長様は。」
「柚子その言葉ナイス!セクシーだよね!?みんなそう思うよね!?」
麻紀ちゃんに同意を求められた幸村と丸井がまん丸な目で私を見ている。それも胸元。こいつらやっぱり芋だ。キリハラ君は顔面真っ赤にして後ろに倒れこんで、それを柳生が冷静に支えている。
「ー!お前と言うやつは何という格好をしておるのだ!!」
「・・・お風呂入ってたんだよ。レギュラー総出でどうしたの?」
ニカッと笑った仁王と愛美ちゃんが大量のスーパーの袋を上げる。そして柳が包装された大きな荷物を差し出した。
「の誕生日パーティーを道明寺の自宅で計画したのだが、道明寺家の屋根が雷に打たれ崩壊してな。会場がなくなったのでプレゼントだけでもと思い訪問した。」
連絡もせずに悪かった、目じりを下げる柳からプレゼントという荷物を受け取ると「おめでとう!」という暖かい言葉が辺りから浴びせられた。
「・・・みんな、ありがとう。どうぞ上がって。」
「「「「「おじゃましまーす!!」」」」」
「琴音、物の場所分かるよね?あるもの全部使っていいから。」
「はい。そうさせていただきます。」
こんなに大量の客が来たのは初めてだ。兄が既に仕事に出ていて良かったと着替えに戻った自室で安堵の溜息を吐き出すと同時に少し目じりが熱くなった。
こんな風に誰かに祝ってもらえる誕生日なんて、本当に久しぶりだ。
Music by Rie fu : Both Sides Now