2月下旬、冬の寒さが和らぎを見せ始めどんよりした雲が海風で遠くに飛ばされて行く。
流れる雲の間から春を思い出させる太陽の光が照らす部室内、ユニフォームを脱いでロッカーに入れたワイシャツに手を掛ける。
今日寄る予定の植物園にあるあの貴重な蘭は咲いたかな、そんなことを思っていた。
「じゃ、おっさきー。」
いち早く帰宅の途につこうとするブン太。「デートだ!」と今日一日部活中煩かったっけ。
「待て、丸井。」
デートに興奮しているブン太を柳が引きとめた。まさか柳、データ収集にデートについて行くつもりなのかな。
まさかな、と笑うと参謀が「ニュースだ。」と俺達全員に話を切りだす。
「来月から女子テニス部の部長になる人間が立海に転校してくることが決まったそうだ。」
ヒューっと仁王が口笛を吹く。真田は相変わらず無言で着替えていた。
「へぇ、誰なんだ?」
珍しくジャッカルが質問を返している。「ふむ。」とデータノートを開けた柳は「聞いて驚くなよ。」ともったえぶる。
真田の彼女で、現女子テニス部をまとめる道明寺さん以上の選手なんてそう滅多にいない。
興味はあったけど、どうせ知らない人だろうと思い、俺は柳に向けていた視線をロッカーに戻して着替えを再開した。
「レッドローズ。」
柳が放ったたった一言が、俺の背筋に鳥肌を立たせた。一瞬ビクついた手がデオドラントスプレーに当たる。
バランスを失ったそれが音を立てて地面に転がった。
柳、今何て言った?
「レッドローズ?」「れっどろおずぅ!?」
俺と丸井のハモった声が天井に響く。丸井は口を尖らせて「なんでぃそれ!」と騒ぎだした。 どうやら話がどうやら全く分かっていないらしい。
柳はフッ、と俺を見て「ああ、レッドローズだ。」と自信満々に言う。まるで俺の何かを見透かしているように。
「・・・本当なのかい、その話。」
「ああ、道明寺が決定した旨を今日伝えてきた。」
「だーかーらー!何なんだよそのレッドローズって!」
自分だけ状況を呑みこめていないことに気付いた丸井が地面を足で叩いて騒ぎだした。
俺はちょっと、放心状態。いつもなら耳につく丸井の声が今だけはとても遠くに聞こえている。
「なんじゃお前さん知らんのか。」
仁王が転がったスプレー缶を投げてよこした。
「月ヶ丘女子大学付属中等部のレッドローズじゃ。」
「だからそれが何なのか聞いてんだよ!!」
「丸井君。レッドローズとは月ヶ丘女子中等部のさんのことです。」
クイっとメガネを上げた柳生が丸井を落ち着かせる。
「。公式の試合では小学校4年生の頃から負けなしのプレイヤーだ。全国大会小学校の部で 真っ赤なユニフォームを着た彼女が見せた華麗で厳格なテニスを報道関係者が「コート上の薔薇」と評価し レッドローズという名前がついた。」
「へぇ。で、なんでそいつがウチにくるんだよ?」
「転校の事情は人それぞれだ。それは本人に聞けばいい。」
柳はとっくに調べているだろう。だけどそれを俺達に言わなかった。
言いにくい内容だったのか、そんな予想はそこにいた誰もついてそれ以上聞く人間はいなかった。
「真田は知っていたのかい?」
「ああ。12月ごろから琴音に聞いていた。確定事項ではなかったから言う必要はなかっただろう。」
最初で最後に見たのは去年の全国大会の表彰式。
男女一緒に行われた表彰式、彼女は3年の選手と共に壇上に立ち歓声を受けていた。
『女子の部、優勝月が丘女子大学付属中等部テニス部。代表者 槙野ツグミ、は壇上へ。』
女子の優勝校は聞いたことのない学校名だった。それはそうだ。女子校に知っている選手はいない。 正直、女子のテニスに興味を持ったことなんてない。内容は男子の試合に比べたらつまらないことが多いんだ。ラリーは続くけど男子の様に華やかな技が女子にはない。
俺はその年までそう決めつけていた。
早く表彰式終わらないかな、欠伸がでそうなのを我慢していた。
壇上に上がり始めた2人の背中。彼女達がトロフィーと賞状を受け取ったのを見て拍手をする。
そして壇上前に並べさせられた俺達を振り向き一礼する2人。
左側に立つ背の高い女の子が折っていた腰をあげ、そして顔を正面に向けた。
その瞬間、風が俺の目の前を高速で過ぎ去って行った気がした。
「・・・綺麗だ。」
素直に口から洩れた言葉に、慌てて口を手で覆った。
何言ってんだ、俺は。あまりの恥ずかしさに一度視線を地面に移す。
次に顔をあげたときには壇上をおり始める2人の姿。
日本人離れした容姿とお譲さま学校に行っていることを語る振舞い方に俺は再び視線を奪われっぱなしだった。
何と言うか、存在そのものが華のようなそんな人物。
ぼーっと視線だけが彼女のことを追いかけているのをを柳に見つかって「精市でもこういったことがあるのだな。」と驚かれた。
俺を何だと思っているんだと背中を叩いてやった。
俺だって男だ、一目ぼれくらいするさ。
表彰式が終わって、その場で解散になった俺達は先輩達と荷物を取りにベンチに戻った。
男子テニス部の応援に来ていた琴音ちゃんは、俺達が席をはずしている間、立海の荷物監視をしてくれていた。 戻って来た俺達を見て「女子も来年は全国を目指します、皆さんのように。」と俺に握手を求めてきた。
その差し出された手を握り返そうとした時、背後からこちらに向かって歩いてくる月ヶ丘女子の選手が着る紫色のユニホームが見えた。
その中には、さっき見た「彼女」が立っていた。
そのまま通り過ぎるだろう、そう思っていたのに。その子は俺達の方をチラリ、と見て目を丸くした。
「・・・琴音?」
女の子にしては少し低い声、でもすごく心地いい声が響く。
「!おめでとうございます。素晴らしかったですよ。」
予想外だ。琴音ちゃんが彼女の名前を呼んだ。そしてもっと予想外なことが起きる。それは真田だった。
「、おめでとう。」
「ありがとう。真田もおめでとう。幼馴染として誇らしいよ。」
ニコリと笑うさんという女の子は「じゃぁ、明日の祝賀会でね。」と手を振って前を歩く部員を追いかけて行った。
「弦一郎、レッドローズと知り合いなのか。」
「ああ。幼少から共に育った。」
へぇ、っと感嘆のため息が漏れた。真田と琴音ちゃんの幼馴染だったんだ。
そして噂で耳にしたことのある「レッドローズ」という人物と彼女が同一人物ということを柳の一言で知ることになった。
「明日は弦一郎さんの御自宅での家族とみんなで優勝祝いをするんです。」
琴音ちゃんはとても楽しそうな顔をしたと思ったら、幼馴染といっても最近はなかなか会えないのだと少し俯いて悲しそうな表情をし始めた。きっとすごく仲のいい間柄なんだろう。
「すごく綺麗な子だよね、あの子。」
俺が拍子もなくそう言うと、真田は「たるんどるぞ幸村!」とか「日本男児たるものが鼻を伸ばすとは何事か?!」とか言い始めた。
思ったことを言っただけなのに、真田は幼馴染だからさんのことをそうゆう対象として見れないんだなきっと。
そう納得して柳に目を向ければ、柳は柳でデータノートに何か書きこんでいるし。
「綺麗な姉ちゃんやなぁ。」
未だ去っていく月ヶ丘の集団を視線で追いかけているのは仁王。
どうやら話が合いそうなのはこいつくらいだったようだ。
話の内容とレッドローズの意味を理解したところで丸井はダッシュで部室を後にした。
俺もラケットバックを上げて、いつも通り部室の鍵を真田に渡す。
半年前の一目ぼれの事件を思考から追い出して、みんなにまた明日、と告げ部室を出た。
携帯で時間を確認すると約束の時間を5分オーバーしている。
彼女はもう校門脇で待っているだろう。
「精市君!!!」
俺の姿を見つけた彼女が手を振って駆け寄ってくる。俺も小さく手を振り返して2人並んで歩きだした。
校門を出ると真っ青な空が姿を見せて、「デート日和だね。」と絵理がいつものように俺の手を握って来る。
絡ませる手、華奢なそれを握り返すと恥ずかしそうに笑う表情が綺麗だ、と思った。
半年前にを見て思った綺麗とは違う綺麗の形を絵理は持っている。
植物園行の暖かいバスの中、乗客は俺達しかいなくて大胆に絵理の肩に頭を凭れかかせる。その行為に驚きながら「幸せそう、精市君。」と俺の髪を撫でる彼女の手。
「一緒に出かけられるのは久しぶりだからね。幸せだよ。」
「・・・精市君、私精市君のこと大好き。」
「俺も。絵理のこと大好きだよ。」
今思えば、半年前の一目ぼれは俺の初恋たっだのかもしれない。
一瞬だったけど、初めて異性に興味を持った瞬間だった。
そう一瞬だったんだ。
がレッドローズと知った俺は、彼女を恋愛対象ではなく同じテニスプレイヤーとして見るようになった。
画像や映像として記録に残る彼女の試合を見て、女子テニスを馬鹿にしていたことを恥ずかしく思った。
彼女がもし、男だったら同じフィールドに立って試合をしたこともあったのかもしれない。
俺はプレイヤーとしてのにとても興味がある。
だから今日、柳から彼女が転校してくることを聞いた時嬉しかった。
「会うのが楽しみだな。」
そう呟いている俺の好奇心の中に去年一瞬芽生えた恋心は今、微塵もない。
俺が今手にしている絵理への恋心はあの初恋より数百倍大きい恋心で、恥ずかしいことにとてもストップが掛けられそうにないんだ。
このまま守っていきたい。
ずっと、このまま。
誰もいないバスの中で、絵理の唇を俺のそれに引きよせて、新しい季節の始まりにそんなことを思った。