「じゃぁ、また明日琴音。」
「琴ちゃんお疲れ。」
「はい、お疲れ様です。みなさん気を付けて帰宅して下さいね。」
立海大学付属中学校午後5時30分、誰もいなくなった女子テニス部の部室ではこの部を率いる道明寺琴音が一人、作業を行っていた。
右上上段の使用されていないロッカーと左下段のロッカーに2つの名札を貼り付ける。
そこに書かれた名前を見て、彼女は薄く笑う。
2年
2年 浜野
右上上段の『2年 』という名前が貼られたロッカーの中には、先日デザインが変わり新調されたばかりのレギュラージャージを入れ、その上には更にクッキーの入った小包を乗せた。
「これで、完璧ですね。」
部室窓から注ぎ込む夕日の暖かさが本当の春の訪れを告げている。
背景には真っ赤な夕日、その手前には少し膨らみを見せた桜の木々がシルエットが立ちはだかる。
眩しすぎる光、その暖かさに気分が良くなったのか、少し目を閉じで今までのことを振り返った。
今日という日で一区切りがつくこの女子テニス部。
明日から始まる今日とは違う部活に不安を抱きながら期待する気持ちはその不安を確かに上回っている。
この立海大付属中学校に入学して、立ちあげたこのテニス部。
男子テニス部が強くて有名なこの学校、女子のテニス部は入学当初存在しなかった。
未来の副部長として男子テニス部を率いることを期待されている幼馴染の男子生徒の協力あって、離れにあるテニスコートを三面もらえることになり、この一年仲間を募り練習に勤しんだ。
小学校5年生の時にジュニアの全国小学生テニス大会で準優勝。その結果に満足できなかった自分。
いつか日本一になりたい、そんな夢を諦めきれず始めた部活。
あの日から、全国大会中学生の部での優勝だけを夢見ている。
部立ち上げから実際奮闘したこの1年は自分にとっていろんな事を学ぶことができた一年、それだけだったのかもしれない。
立ちあげたばかりのころは、練習メニューやペア構成を研究して、一日でも早く全国のレベルに近づけることしか考えていなかった。
問題はすぐにその姿を現した。それは部活の在り方、そんな根本的なことだった。
部活に入る生徒の目的は様々だ。身体を動かしたいから、部活動を通じて交流関係を広めたいから。
テニスが好きだから、そして大会で優勝したいからという理由で入部した部員は少なかった。
遊び目的で入部した部員が私の作った練習メニューについて来られるわけがなかった。
当初はそんな異なる部員層を何とか部活として一つの形にしようとしていた。
だけど、全国大会を目指し練習したいプレイヤーと遊び程度で練習プレイヤーが同じフィールドで
力を高め合うなど所詮無理なことだったと認めざるを得なかったのは部活を立ち上げ数カ月後。
気付けば入部した半数の部員に退部届を渡され、残ったのは本当に全国を目指したいと思っているメンバー15人のみ。
『半分残ったんだろう?いい方だと思うけどな。』
男子テニス部で実質上すでに部長の地位を手に入れている幸村さんは私にそう言った。
『幸村さんは退部届を受け取って辛くなることはありませんか?』
『ないね。』
そうはっきりという幸村さんは笑みさえ浮かべていた。
部長として一番大切なことは、時に残酷であることだ。
部責任者としてこの1年、「部長」と呼ばれていた地位を私は今日降りる。
部長らしからぬ部長だった。メンバーを満足にまとめることができず、自分自身に嫌悪を抱かずにはいられない。
私に「部長」という地位は向いていない。幸村さんのようなトップでいたいと努力すればする程空回りした。
まともに出来たことと言えば部費の管理と部員のデータを取ることくらい。
これからどうやってこの部活をやっていけばいいのか本気で悩んでいた時に街で偶然再会した幼馴染、『カトレヤ』。
彼女は名門女子中学校「月ヶ丘女子大学付属中等部」の生徒だったが、わけあってこの春立海に転校することになった。
転校を勧めたのは私だ。
カトレヤは先年、月ヶ丘女子のテニス部を優勝に導いている。
明日から、この部をまとめるのは4月1日からこの立海の生徒になるカトレヤ。
あの子なら、私の築いた部を全国大会優勝に導いてくれる、そう思うと少し鳥肌に見舞われた。
そして彼女には「平穏な」生活が訪れるだろう。
彼女と一緒に転校してくるという浜野奈々さんは、去年月ヶ丘女子大付属でシングルス2を任された実力者。
浜野さんもレギュラーとして部員を引っ張っていってくれるはずだ。
「琴音、帰るぞ。」
「待たせたね、琴音ちゃん。」
部室のドアが開かれ、私を呼ぶ幼馴染。その声に私は現実に呼び戻された。
弦一郎さんのその隣では幸村さんが笑っていた。
「では、帰りましょう。」
歩き出す夕焼けの道、学校裏の海沿いを駅に向かい遠回り。
明日からここにもう一人の幼馴染が加わる。
「明日からも一緒ですよ。」
「ふむ。楽しみだな。」
春休みに入り、明日から練習に参加するカトレヤ。
正式にはまだ立海の生徒ではないが顧問に頼みこみ承諾を貰った。
滅多に笑わない弦一郎さんが嬉しそうに口元に笑みを浮かべていた。
「レッドローズ・・・。会うのが楽しみだ。」
幸村さんはカトレヤを去年の全国大会で見ている。
彼も彼女の良い理解者の一人になるだろう。
未だに沈まない太陽。
その光に目を細め、肩にかかるラケットバックを力強く握りしめた。
ここから私達、立海女子テニス部の本当の物語が始まる。