今日から夏服だ。自主練だった朝練には行かず、2カ月も着なかった冬服を朝クリーニングに出しに行った。夏服のスカートは軽い。空気は重い、梅雨が来たのだ。私は日本のこの季節が大嫌い。肌にべた付く水分が気持ち悪くて仕方ない。
「おはよう、。」
駅から校門へ歩く道、背後に奈々の声を聞いて振り返った。広げたお互いの傘がぶつかる。傘に乗っていた水滴が勢いよく地面へ落下した。
「朝練行かなかったんだ。」
「お互い様でしょ。それにしても完全防具ね。」
「毎年のことながら。」
今日教室に言ったらみんなにこの格好のことを聞かれるだろう。答えるのが面倒だなと思いながら校舎を潜る。校門前で制服指導をしていたF組の担任、柿本先生には注意を受けなかった。
「病気か?」
学級院長の松永が教室に入った私を見て言った。私がまるで冬服の格好をしていたからだ。長いワイシャツに、手首まであるカーディガン。スカートの下には今までと同じく黒のタイツ。「ちゃん今日から夏服だよ?」私が衣替えを知らなかったと思いこんだクラスメイトが気に掛けてくれた。
「私、素肌みせられないんだ。」
「え?…宗教か何かの関係?」
「体質。日本の太陽は強過ぎて肌に異常がでるから。」
「そっかぁ。聞いたことあるよ、北欧の人は色素が薄いし強い太陽の日差しに弱いんだよね。カーディガンの替え必要だったら私の貸すから言ってね!」
「潤菜ー。潤菜のサイズじゃには小さすぎるでしょ。あんたただでさえ身長平均以下なんだから。」
そう小西潤菜に言う宮城美里は「私のなら入るかもね。」と自分用に持ってきていたらしい指定カーディガンをバックから取り出した。私は2人から視線を離せない。私抜きで行われている2人のやりとりは、私のためにあるものだった。
『変な子よね。あんな格好して。』
『暑っ苦しいんだよねぇ。』
『ハーフか何か知らないけどここは日本何だからさぁ。』
去年の月ヶ丘女子中等部1年V組。1学期には何も言わなかったクラスメイトは2学期になってそんなことを言い始めた。丁度イジメが酷くなってきた頃だ。陰口じゃない。廊下ですれ違うたびに、教室に入るたびに聞こえてきたんだから。そんな風に言われるのが嫌で、一日だけ普通の夏服で登校したことがある。案の定肌が大変なことになって、湿疹がようやく治まり学校に行けば今度は真っ赤になった肌を馬鹿にされたっけ。
「、どうした?」
カーディガンを受け取らずぼうっとしていた私に美里が声を掛ける。今の現実に呼び戻された。
「…ありがとう。悪いね、美里。」
「気にしないでちゃんと陽から身守りなよ。テニス部なんだから油断大敵だよ!」
バスケ部のエースは屈託ない笑顔を見せる。彼女達の優しさに、久しぶりに泣きそうになった。私はこの立海の生徒が、F組のみんなが大好きだ。
「。」
朝練に出ていたらしい春希が教室にやってきた。髪の毛が少し雨に濡れていた。
「大丈夫だって言ったろ?」
「うん。大丈夫だった。」
『毎日長ジャージで暑くない?』
部活中、部員に聞かれたことがあった。元々体温が低くて暑さを感じない上に、太陽アレルギーなので脱げないのだと告げれば驚かれた。無理はない、普通そんな人間はテニスなんてしないから。夏にタイツを履かなければならないこと、カーディガンを着なければならないことをその場にいた春希に話した。クラスのみんなに変に見られないかな、そう漏らせば彼女は『はっ、そんなこと。』と笑い飛ばしたのだ。
「あ、春希だおはよー。」
「おはよ、宮城。」
「ほらー、朝のホームルーム始めるぞー。」
続いて教室に入って来た柿本先生はいつものことながら威勢がよかった。
一昨日、学校テニス部宛てに一通の封書が届いた。地区予選トーナメント籤引きへのお誘いだ。
「部長の君が行かなくて良かったのかい?」
「時間の無駄。どの学校とあたっても同じだもの。」
強いチームは上に上がってくる。彼らと最初に当たろうが最後に当たろうが関係ない。目指しているのは頂上のみ、いっそのこと初めに潰しておいた方が後は楽かもしれない。こんな強がりを言ったものの、それは自分のチームが100%の状態であれば言えること。この春から本格的に指導し始めた立海テニス部の現状数値は60%弱。まずは弱いチームと当たって試合慣れしておいた方が得策。そしてメンバーに自信をつけさせる、自分達は強いのだ、と。今のままの計算で行けば関東大会決勝までに100%の域へ到達できるだろう。その到達の腰を折らない為にも関東大会中盤までなるべく強いチームとは当たりたくない。
誰もが知っている、籤引きは運が勝負だ。
「なんて、本当は籤運ないんだろ。」
ニコニコ笑う男子テニス部部長は何でもお見通しだった。
「ほっとけ。」
おばあちゃんに何百回も引かされた神社や寺での御神籤。中吉が出たのは記憶によればたった1度のみ。無論大吉なんてお目にかかったことがない。毎度の様に凶ばかり。大凶も12回引いたことがある。
『絶対行かない。私は部活を見てるから行ってきて、よろしく。』そう言って副部長の琴音とその付き添いに柚子葉を籤引き会場へ強制的に送りだした。
「男子は第1シード?」
「ああ、地区予選の試合は2試合だけだ。」
「うらやましい。」
「全国まで敵という敵がいないからね。当然の処遇だよ。」
昨年全国優勝した学校が次の年優遇されるのはあたりまえの話だ。月ヶ丘女子も槙野先輩の恩恵にあずかり今年の関東大会出場がすでに決定済み。関東大会会場ではあの学校の人間を見ることになる。怖いのか、ただ面倒なのか分からない。面倒くさいことにならなければいい、ただそう願っている。
「、明日の壮行会の挨拶楽しみにしてる。」
別れ際、幸村が呟いた。南先生に渡された用紙は結局白紙のままだ。今日、最後の足掻きと何かを書くことはないだろう。明日の挨拶では今思う在りのままの気持ちを言葉にしよう。そう決めた。
残念なことに試合の結果は敗北か勝利しかない。
結果だけが全てだと言う人間いる。
その過程で築いた物が宝だと言える人がいる。
負けを嘆く人間にはなりたくないけれど、負けることに意味が見出せる人間にとって敗北は次への土台となる。多くの人が忘れている、負けを知る人間ほど、その悔しさを勝利に替えられる力を持っていること。
それは目指すものがあるからだ。人間という生き物はどこまでも貪欲で必死に何かを手に入れようと努力する。
目標を失ったら、試合は終了。伸ばした手が届かない目標があるからこそ、限界に挑戦したくなる。無我夢中に走って、倒れたら泣いてもいい。
泣いても、叫んでも、助けてくれる仲間がいるから乗り越えられる一瞬がある。
そんな大切な仲間のために、私には守りたい明日がある。