「ここにいらっしゃったんですか。」
春希の膝枕を借りて寝転がっていた。昼休みだというのに此処はすこぶる静かで学生ということを忘れつい寝てしまいそうになった。手に紙袋を下げやってきた琴音はその中からシフォンケーキとケーキナイフを取り出し綺麗に取り分ける。甘い香りに誘われてきた蜜蜂が飛んで来た。
「すごいね、此処。」
フォークを口に運びながらグルリと一面を見渡す。そこには花、花、花。今日初めて来たが屋上階段を開けた瞬間はあまりの花の匂いに噎せ返った。花壇が敷き詰められる屋上。真ん中には薔薇の蔦に覆われた巨大鳥籠のような庭小屋みたいなものまであった。どこぞのメルヘンに出てきそうだ。
「あの中でキスをしたカップルは永遠に結ばれるという立海のジンクスがあるんですよ。」
ぽーっと小屋を見つめる琴音はどうやらそのジンクスとやらを信じているらしい。今度鍵を買ってきて真田とあの中に閉じ込めてやろう。そんな悪戯を思いついた。
「そのジンクスは偽物だったみたいだけどね。」
3人で円を描いて座っていたところに差し込んだ一人の陰。やぁ、と手を振る人物に私達は顔をあげた。
「こんにちは幸村さん。今日も水やりお疲れ様です。」
「幸村が世話してるの?」
「そう、美化委員でね。屋上庭園は俺のテリトリー。」
幸村もそのジンクス、久賀さんと試したのだろう。
2人が破局したことは公に知られていない。春希が「あの2人別れたのか。」そう耳打ちしてきた。
彼女との思い出の場所を花の水やりで毎日見なきゃならないなんて可哀想に。私はメルヘン小屋を見つめた。神様はもう少しまともな別れを用意するべきだったのだ。一方的に幸村が傷つくことになった彼らの終幕は、酷いものだった。神様という存在が実在するなら、私はそいつが嫌いだ。
『絵理とは別れた。』先日そう報告してきた幸村本人は可哀想なんて表情全く覗かせず、心から穏やかそうな顔をしていたけれど。
「、気に入った花はあったかい?」
2人の思い出の場所に向けていた視線を幸村に戻す。正直、あまり沢山はなかった。季節が季節だからだろうか、目立つ所に植えられている花はどれも個性の強い大きな花が多くて、儚く美しい花達はそんな彼らに存在を掻き消されていた。チラリ、とハーブ園の方に目をやった。あそこには好きな花があった。
「ローズマリーはいいね。」
琴音が笑う。「ローズマリーはのお気に入りですものね。」と。
「他に好きな花があるなら教えてくれるかな。咲いたところを見せたいから。」
幸村は私の隣に屈んでそんなことを言った。その時、幸村が見せていた表情に私の目元が緩む。久賀さんに向けていた幸せ全開の笑顔とは違うけれど、この数週間で貼り付けたような微笑みを私達に見せなくなった幸村をとても嬉しく思う。
「検討しておく。」
「じゃぁ3人とも、放課後部活でね。」水やりにいかなきゃ、と腰を上げた幸村。
遠ざかる見かけよりもずっと大きな背中に「君はやっぱりその笑顔の方が似合うよ。」と自己満足に漏らした。幸村は一度こちらを振り返ったけれど私の言葉が届いたのか、届いていないのか、優しい笑みだけを残して去って行く。
春希が彼の背中を見ながら「幸村ずいぶん変わったな。」そう目を丸くした。
「春希ー。次さぼりたい。」
ゴロリ。また春希の膝を借りて寝転がる。お腹もいっぱいで、とっても眠い。
「駄目、そろそろ戻るよ。次は移動教室だ。」
「次、何?」
「美術。」
「…うわー。」
こんなに気分がいい日に美術だなんて。やっぱり神様は酷い存在だ。
誰もいなくなった女子テニスコートで壁打ちをする。ポーンポーンと規則正しいリズムでボールがラケットに返ってくる。今日は一人でゆっくり練習できる最後の日。明日から他の部員も長めに残して練習させるつもりでいるからだ。基礎体力もついたし、一人一人とそれぞれに適した技の考案についても話をした。自分だけの技を持たない選手が試合で勝つのは難しい。自分を守るために、上を目指すためにプレイヤーは技術で全てをカバーしようとする。強い選手であればあるほど技のレパートリーは増えていって、色々な局面で応用できるようになる。それが普通のテニスプレイヤーだ。私も、この学校にいるほとんど全てのテニス部部員もこれに当てはまる。
一人だけ、違うスタイルで中学生の頂点に立っているのは幸村精市。
彼には特にこれといった華々しい技があるわけじゃない。正確すぎるコントロール、他のプレイヤーが繰り出す技の本質を見抜く能力、そして恐ろしいほど計画的なゲームコントロール。あまりに洗礼されたこの3つの能力に、相手プレイヤーは精神的負荷を掛けられる。インプスと呼ばれるそれ。テニスの試合で相手に心をガタガタにできる彼は、俗にいう神の子。初めて見たのは小学校6年の時。「怖い。」素直にそう思った。そして「酷いテニスだ。」とも思った。
幸村がインプスを使うことは稀だ。相手が精神的負荷をインプスという形で感じる前に大半の試合が終わってしまうから。小学校6年の時に見た幸村の試合、相手選手はボロボロになってテニスコートで泣いていた。顔面を涙でグシャグシャにしていた。その反対側で口元だけに笑みを見せていたのは幸村。「君の負けだよ。」目は全然笑っていなかった。
ぞっと背筋に悪寒を感じた。
あんなテニスは認めたくない。
幸村という選手はロクでもない人間なんだろう。精神が腐ってる、そう思っていた。
でも、
私は知り合ってしまった。この立海で。
知ってしまった、彼という人間。
「何であの子があんなテニス…。」
バーンっ!思い切り振ったラケット、テニスボールが物凄い音を立てて壁に当り返ってくる。私はただ無我夢中でラケットを振りぬいた。スイートスポットを外れたボールがそのまま、フェンスの外に飛んでいく。
「はぁ、はぁ。」珍しく肩で息をしていた。
「付き合う。壁が相手では物足りないだろう。」
「…真田。」
いつの間にか真田が横にいた。遥か後方のフェンス外には制服に着替えた男子レギュラーが帰宅する姿が見えた。真田だけはジャージだ。荒れているボールの音を聞いて最初からこっちに寄ってくれるつもりだったのだろう。
「ごめん。」
「謝るな、お前の自棄には慣れている。」
「何しとるんじゃ。」
あまりのやる気の無さに配布されたキャンバスを黒の絵の具で塗りつぶしただけの作品を先生に提出して怒られた。題を「神の住むところ」なんて意味の分からないものにしたのが怒りをかったのか。まさかやりなおせと言われるとは思わず、私は真面目に取り組まなかった先週の美術の授業を後悔している。
新しいキャンバスを渡され、頭に浮かぶ画像を何とか絵にしようと中庭で座っているとそこに仁王がやってきた。春希は早々に新しい課題を終わらせて隣で寝ている。覆いかぶさって私も寝る、と言ったら「それ終わるまでは駄目。」そう一喝された。
「美術の再提出。仁王こそ授業中にウロウロしてどうしたの。」
「再提出?そんなに美術苦手なんか。」
あ、はぐらかした。さてはサボりだな。
「苦手、というよりは嫌いかな。」
「お前さんと幸村は似ているようで正反対じゃな。」
仁王がはは、と笑う。周りから見ると私と幸村は似ているのか。考えたこともなかった。
「幸村美術得意?」
「得意かはしらんが好きとは言っとったのう。」
「へぇ・・・。花とか絵とか繊細な子だよね。」
仁王が言う通り私達が正反対なら、幸村君は繊細で私はがさつということか。それはそれで悲しいな。
「もうこれでいいや。」
たくさん余っていた藍色の絵の具と茶色の絵の具をキャンバスの上で混ざり合わせただけの作品を完成させた。
「題は青春でいいかな。」
仁王は腹を抱えて笑い始めて、起き上がった春希は「ずいぶんどす黒い青春だな。」そうキャンバスに目を細めた。