「…それで倒れたと。呼吸はしてましたか?」
柳生は冷静だった。呼吸はしていることを話すとラケットを置き行きましょうかと歩き出す。
「彼女は元々とても体温が低いのです。雨に当たって余計体温が下がり血液循環がおかしくなったのでしょう。シャワー室でお湯をかけ温めるのが一番の処置法です。」
今だ地面に降りつける雨の中からと精市を拾って部室のシャワー室まで走る。さすがに脱がすことはできずジャージを着たままのに向けシャワーのノズルを全開にした。
話しを聞きつけ、真田を始めとしたレギュラー陣が心配した様子で部室に戻って来た。我先にとの無事を確認しようシャワー室に押し掛ける。
噴き上がる湯気の中「あー生きかえる。」と声がした。柳生は曇ったメガネを仁王に預け壁に凭れかかるの前に足を付いた。
「大丈夫ですか?」
「うん。今さっき目覚めた。」
「全く、あれほど身体を冷やすなと言いませんでしたか?」
「医師(せんせい)には内緒にしといて。あと、真田と琴音にも。」
は目を瞑ったままだ。顔を天井に向けて上から降ってくる暖かいお湯を全身で浴びている。弦一郎がもうすでに部室内にいることは見えていないのだろう。本人は拳を握り震わせていた。仁王が無言で弦一郎をシャワー室からつれだした。
「柳、ここにいる?」
「…ああ。」
柳生の隣に足を付く。返事をすると、は薄ら目を開け俺を見た。いつもとは違う弱った視線だった。今だに冷え切っている左手が俺の手を握って、弱い力で上半身を俺の身体に預ける。に降りかかっていたお湯が俺のジャージに入り込む。
「柳がいてよかった。」
「!お前心配かけんじゃねえ!」
丸井は大声をあげて、俺とに飛びつかん勢いだ。
「そう言えば今日糖分取ってないや。」
は丸井を見て思い出したように言った。「さん、それは倒れて当たり前です。」それを聞いた柳生はコメカミに筋を浮かべ立ち上がる。
「ホールケーキを3つほど買ってきます。」
「俺も行く!」すかさず立ち上がった丸井はニッと笑ってカマをかけ問う。「3つで足りるのかよ?」
は丸井の表情をそっくりそのまま返すように「いや、6つ。」と笑った。
「どれから食べようかな。」
男子の部室はむさ苦しいと女子の部室に移動した。着替えたは柳生が買って来た温かいコーヒーを一気に飲み干し、テーブルに並べられたケーキに片っ端からフォークを突き刺した。テーブルに並べられたケーキは8つ。6つはのもので1つは丸井専用、そして最後の1つは残りのメンバーのために購入された物だ。
飲み物を淹れたところで外から帰って来た「ふり」をした仁王と弦一郎は赤也をつれていた。
「なんすかこのケーキの数。」
の食生活を知らない赤也は目を丸くした。
「れっきとした糖質吸収不良症候群です。通常糖分は体内で分解され適した物質になった時点で細胞に取り込まれますが彼女の場合その過程そのものに問題があるため糖質吸収率が驚くほど低く、エネルギーが生産されにくい。糖分なしに身体を動かすエネルギーは生産されませんからね。機械でいうなら電池切れの状態です。これだけ毎日ケーキを食べてもこの細さですから、将来の事を考えてホルモン系を操作する薬服用の検討を父が進めているようですが、彼女は「薬はいらない。」の一点張りのようです。」
柳生が紅茶を飲みながら説明する、それをメンバーは黙って聴いていた。
「今回の事は心身のストレスあってのことでしょうが、御自分の身体ですよ、大事になさってください。」
丁度、6つめのケーキを食べ終えたは柳生に視線を向けて頷いた。
「、家まで送ろう。」
弦一郎は今、おそらく一番を心配している。は「いや。」と弦一郎に微笑みを見せた。
「機嫌も良くなったところで、私まだ君達の部長と話さなきゃいけないことあるから。」
それまで何も言わなかった精市は顔を上げた。
「ちょっと2人にしてくれるかな。」
が2つめのホットコーヒーを開ける。
幸村が今日の部活はこれで終わりにしようと告げる。他の部員には俺がすでに解散を伝えていた。他のレギュラー陣と共に女子の部室を後にして、俺は柳と柳生に今日の事で礼を告げた。
「弦一郎、道明寺は大丈夫か?」
「…相当参っているようだ。だが、が元気になれば直に良くなるだろう。」
「今回の事は、幸村君に責があるようですね。」
柳生がためらいなく言った。
「の事だ、許すさ。」
丸井は自信満々に。
「そうじゃな。」
仁王はそう願ってると言わんばかりに。
「よし、明日はと風呂に行くぜ!」
突然話の内容を大幅に逸らした丸井を全員が見る。雨の中、丸井の半径1mだけは希望の光りに満ちているようにさえ見える。何を思って言いだしたのか知る者はいないが、意外にも真っ先に乗ったのは柳生だった。
「いいですね。行きましょうか。」
その夜、女子のレギュラー陣にも風呂セット持参のメールが回された。
「Ja ja....ne ich komme heute etwas spaeter nach Hause.」
「Keine Sorge. Ja, ich hab schon genung gegessen.」
「Alles klar. Bis nachher dann. Ciao.」
男子部員が出て行くと、さんの携帯が鳴った。家族からだろうか、面倒くさそうに出て、少し会話が続くと通話終了のボタンが押された。切った際、ディスプレイに新着メッセージがあるのを確認した彼女は顔をしかめた。首を傾げてメッセージを読んで、用なしになった携帯がテーブルに投げられた。
ガタン、と響く音が木霊する。電話が切れたことで静まり返った部室内。最初に口を開いたのは彼女だった。
「…柳、見せたの?」
何のことを言われているのか分からなかった。ああ、そうか絵理のことか。絵理とあの男の事を考えることより、この数時間さんと女子テニス部の事ばかり考えていた自分に気付く。
「君が俺に言った言葉の意味がようやく分かった。」
ソファに全身を横たえて、雨が降る外を見るさんは俺に視点を合わせず反応も返さない。その横顔は綺麗だった。
「俺は、君と君のテニス部にとんでもないことをしてしまった。本当に、申し訳ない。」
腰を折って頭を下げた。謝っても謝りきれない。
「…辛いのはキミでしょ。」
さんは目を閉じて何かを言うけれどその言葉は俺に届かない。
「私人に嫌われるとか、人前で恥をかかされるとか慣れてるんだよね。だから君がしたことはただの幼稚な行動くらいにしか思ってない。」
でも。そう置いてさんはソファから身体を起した。
「琴音には謝って。私は、あの子を傷つける人間は許さない。」
俺は、この子に本気で嫌われたな。そう思った。
「今日、琴音ちゃんの自宅に寄って帰るよ。」
2つめの缶をゴミ箱に捨てようと立ち上がったさんは「じゃぁついて行ってあげる。」
少し明るくなった声でそう言った。
「さっきは触るな、なんて言ってごめん。いろんなことでイライラしてた。」
君が謝ることなんて何もない。
「ねぇ幸村。話を聴いて、一緒にいろんなことを悩んで、一緒に泣いてくれる人が君にはいる?」
ゴミ箱に缶を投げ入れたさんは俺の隣の椅子を引いて、テーブルに頬肘をつく。その薄い瞳にじっと見つめられ、俺は考えた。
「…いない、かな。」
絵理がそうだったけれど、あの子と今までの関係にいれることはもうない。何でこんなことになったのか、理由を考えてみるけれど人間の心変わりには説明がつかないこともある。俺がテニスばかりで寂しかったのかもしれない、最初から騙されていたのかもしれない。あり得る理由なんて百も千もあって、本人に聞いてみる他にはないんだ。
「じゃぁ、私が聴くから。何かあったら来なよ。」
「え?」
「何?私じゃやっぱり不満か。」
あはは、と可笑しそうにさんは笑いだした。そこで気付いたんだ。俺が、絵理に求めていたこと。俺は自分の話を聞いてくれる存在が欲しかったんだ。何でも共有できる相手。俺はそんな存在が欲しくて、恋愛と言う鎖で絵理を自分に縛り付けていたんだ。異性として好きだという気持ちはあった。その気持ちと俺のエゴが混ざり合っていつの間にか「この恋愛は一生ものだ」なんて俺の中で大それた存在になっていた。
「…何で君はそんなに優しいんだろうね。」
彼女といると、自分が小さい子供の様だ。いろいろなことに気付かされる。そして悪ぶっていた俺を許してくれるこの女性はなんて大人で素敵なんだろう。
「自分が優しい人間なんて思ったことないけど。幸村ももう少ししたら同じだよ。だれでも赦せるようになるよ。」女は精神の成長が早いから、そう彼女は足した。
「聴いてもらってもいいかな、俺の話。」
「もちろん。」
俺は泣きそうだった。今日あったいろんなことが今になって湧きあがって来て、苦しかった。
「泣いてもいいよ。」
その声が優しすぎて、更に苦しくなった。
その夜、琴音ちゃんの自宅に向かって歩いている時、さんはコンビニに寄ってくと小さめのシャンプーとリンスを購入して出てきた。
「明日、テニス部みんなで銭湯行くらしいから。」
ほら、と丸井から配信されたらしい電子メールを付きつけられる。今日一度も開かなかった携帯を見てみると、俺にも同じメッセージが来ていて俺もコンビニに駆けこんだ。
絵理から来ていたメールを2件、読まずに削除した。