伝説


伝説之三十






官位が出入りする導師クレフの仕事場に静寂というものが訪れることは大変稀なことだ。 朝は導師クレフがこの部屋を訪れる前に、扉の前で彼の到着を待つ大臣や神官達が群がる。 彼らが手にしている書面の量からその日の仕事の量が大体目算できる。 そもそも導師という存在自体は、人々を適した役職に導き国の柱を支える、それだけの存在だったはずなのに、自分はいろんなことに手を出し過ぎたのかもしれない。 専属の弟子をとり、今では国政にまで携わっている。 いい加減に政治からは離れたい。現在大臣の頂点に立つエクステラは信頼のおける人間だ。 あれに後の仕事はすべて任せて、自分は本来の導師のやるべきことに集中しよう、そんなことを沈み始めた太陽を見ながら溜息と共に吐き出した。 「導師、こちらで最後です。」 自分の師の多忙さを見て見ぬふりもできず、手伝いに上がって来ていたのはザガート。 こんなに落ち着いて仕事ができるのはザガートの性格のおかげだ。これが新米の神官であったらあの書類が消えた次はこれとこれと、と騒がしくなるだけ。 「ザガート、忙しいだろうにすまんな。」 「いえ、エメロード姫も祈りの最中、時間を持て余しておりました。」 「あれからランティスの行方はつかめたか?」 首を横に振り顔をあげたザガートはその視線を窓の外に向けた。 最高の国の魔法戦士が消えて早2カ月。彼がセフィーロを出て行ったという話は関係者の中で瞬く間に広まった。 理由を誰にも話すことなく忽然と消えた事に対して、不平や悪口すら聞かれることがあった。 最近では、その話は熱を失って彼の存在すら忘れている人間もいる。 最後の書面にサインをした導師クレフが筆を置いた瞬間、彼と神官ザガートの視線は入口の扉に向けられた。誰かがこの部屋にかけてくる気配がする。 ザガートに相槌を打ち、扉を魔法で開けさせた。そこに飛び込んできたのは衛兵姿の男が一人。 門番だろうか、城内では見たことのない男だ。 「ど、導師クレフ、お忙しいところを私のような者が大変失礼します。セフィーロ城西門にフルエンスから遣いの方が大至急導師クレフに御取次をと。」 「フルエンス・・・。その者の名は聞いたか?」 「はい、治癒師シルエイティ様です。」 「トレディアが?今朝フルエンスへ発ったばかりだろう。」 サガートと顔を見合わせた。トレディアが神官を通さず直接私に取り継ぐほどの至急の用とは何だろうか。 『・・・師。』 心に響いた微かな声に心臓の鼓動が反応した。テレパシー、魔法を使う者ならば誰もが通信手段と知っている方法だ。 『導師。』 「か。ではトレディアの用と言うのは。」 『私のことです。導師、あなたに話さなければならない事がございます。』 赤いようなオレンジのような、桜色のような空を仰いだ。前方に薄らと姿を現し始めたセフィーロ城は背後に沈む太陽を背負い、見事な逆光のシルエットを作っている。 導師クレフのところまで辿りつくには時間がない、最後の手段があるとすれば遠隔で彼と通信することだけだ。 『あなたが私に話した二つ目の伝説はすでに始動していたのです。私があなたに会うずっと前から。』 「どういうことだ?」 『リバティ。私は彼が伝説の生き物と知らず、ココンと呼んでいた。』 驚愕、とはまさにこの表情の事をいうのかもしれない、と衛兵は思った。 彼には聞こえない何か、それを耳にした導師クレフと神官ザガートの表情が変わった。 「なにを馬鹿なことを・・・。」 「先日、リバティがフルエンスに来ました。私を今日、迎えに来ると伝えに。」 「トレディアが来たのは西門と言ったか?」 導師の杖を持つ手が些か震えていた。何かを噛みしめたように、額には汗も見える。 「は、はい!」 返事を最後まで聞かずに走りだした導師クレフと神官ザガートの背中を追いかけた。 とても早くて途中で追いかけるのを諦めた、彼らの背中を見送りながらなぜか「頑張れ」と呟いた。 『導師がグルガル病にかかられた頃からずっと頭痛に悩まされていました。それは治ることなく悪化した。伝説が始まるぞとリバティが18年前から私に示唆していたものです。』 「バカな、そんなことがあるはずがない。二つ目の伝説が起こった記録はセフィーロでも1度とされている稀な物、それがお前などと信じられるわけがなかろう。」 『・・・私はその「稀」付き合わねばならない運命にあるようです。』 「導師!」 城の外門を飛び出すと横から聞こえて来た声に振り向くと、衛兵に介抱されているトレディアがいた。 「チェリが師匠を連れてきます、しかし待っていては間に合わないでしょう。」 太陽はすでに地平線へ沈みかけている。 彼女の居場所が正確に分からない今、精獣に乗るのは都合が悪い。トレディアが指さす方に向かい地面を蹴った。 『導師、私を迎えに来て下さった時の事、覚えていますか。あの日からあなたに育てていただいたこの御恩は一生忘れません。』 「・・・それ以上言うことは許さん、今生の別れにでもするつもりか。」 『本当は、何も言わず消えるつもりでした。あなたがどんな顔をなさるか見たくなかった。』 ドクン、ドクン、と心臓が痛いくらいに鳴る。チェリは馬を走らせるのに集中し、そして最後の丘を越えたところで前方に目を細めた。 「様、導師が城の前に!」 あと1キロ程度のところでやっと開けた視界に、確かに導師クレフの姿があった。 『導師クレフ、私はあなたを導師として見るべきか、育ててくれた方として見るべきか分かりませんでした。 あなたはこんな私を愛してくれたのに、本当に最近までそれに全く気付かなかった。』 瞬時、ぱぁ、っと光を放つ腕輪に自分の体が包まれた。 「様!!!」 私は、大量の涙を流していたと思う。視界は歪むし、体は崩れてしまいそうに震えて、 あと少し、あと少しで導師の手が届くところで、太陽はその身のほとんどを地平線の奥へ隠してしまった。 「!今行く、だからそれまで持ちこたえるんだ!」 ふるふる、と首を振った。 涙を布で拭って、最後くらいはと少し笑って見せる。もう星が輝き始めたこの綺麗な空に未練は残したくない。 『・・・ありがとう、お父様。』 今まで腕の中で抱えていた師匠が消えた。俺の手綱を握る手が震えている。 最後、目も眩むような光に包まれ、目を開けた時には師匠の纏っていたケーブが残っていて、本人の姿が無くなっていた。 涙に濡れていたケーブを手にとって、俺も泣いた。 「間に合わなかった・・・。」 止めた馬から転がるように地面に膝をついて、師匠のケーブを握り締めた。 この城へ向かう途中、涙を流してばかりだった師匠の姿が頭を離れない。 こんなに辛い想いを誰にも話さず、自分の内だけに秘めるんて、悲しいことだ。 気付いてあげたかった。 また涙が零れそうになった時、すぐ近くで何かが転がるような音がして、ぐしゃぐしゃの顔をあげた。 50メートルほど先で立ちつくしている導師クレフの手から杖が落ちたのか。 導師の体は後ろから追ってきたらしいザガート様に支えられている。その眼がじっと見ているのは俺が持っているケーブだ。 導師にお渡ししなくては・・・。 立ち上がり、前方へふらつく足を進める。 ケーブを渡した導師は、起こったことが未だに分かっていない様に放心状態で、瞳も動かさず、ずっと様が消えた地点を見ていた。 「導師クレフ、お気を確かに。」 神官の一言で、瞳を師匠のケーブに戻した導師の頬を涙が伝う。 ザガート様本人も、導師に声を掛けるのがやっとのようで、突如知らされた友人の別離に戸惑っている様子だ。 支えられている小さな体は、両手で両肘を抑え、震えだす体を抑えているかのようだ。 「・・・。」 「------!!!!!!!!」 導師クレフの叫び声が星降る夜空に登っていった。 こんな悲痛な声は、彼女に届きませんように、そう思った。 その後トレディアと合流したが、会話はない。 俺もトレディアも師匠が消えた悲しみにその夜は浸り続けた。 夜中、与えられた隣部屋で泣いているトレディアの嗚咽を耳に、バルコニーに出て空を見上げた。 今、心を少しでも癒せるものがあるならそれは薬じゃない。 きっとこの空の星達くらいだと思った。 俺もトレディアも、今日という日を一生忘れないだろう。 師匠の涙も、そして導師の叫び声も。