現実世界に還って1週間。濃い時間が一刻一刻と過ぎて行った。目の廻るような現実の変化を、そういうものなのだと受け入れる日常が、麻痺してくる。
レイヴンがギルだったこと、そして違法契約者の逝く末を目の当たりにして、心の整理はついているなんて強気な発言をしたら誰かに見透かされてしまうことが自分で容易に理解できるくらいの戸惑いはあるんだ。
ブレイクやシャロンちゃんは俺に何かを隠している。
信じられるのは、アリスとギルだけ。
何でこんなことになったんだ。
『罪、それはお前の存在そのものだ』誰かがそう言った。
ああ、そうか。こんな状況に自分が立っていること、それは誰でもない自分のせいなのだ。
押しつぶされてしまいそうな感情を押し込んで、表面だけ繕っている自分はまるで人形。分かっているんだ。でも、分かろうとしないのもまた自分。
俺は、認めることができない臆病者。
「誰なのだ、紹介したい奴というのは。」
「そう焦らずともすぐに分かりますわ。」
シャロンちゃんの背中に向かいブス腐れたように言葉を投げるアリス。そして視線だけ背後に投げてよこしたブレイク。彼は口元に笑みを浮かべていた。
レベイユ市内を外れた大きな屋敷に到着し、馬車を降りた俺達は目の前に聳え立つ背の高い屋敷を見上げている。
「うわぁ。立派な建物だね。」
レインズワース家の屋敷とも、ベザリウス家の屋敷とも建築が異なる豪華な屋敷。ぐぅ、とアリスのお腹が音を鳴らした。
「オズ・ベザリウス様、お待ち申し上げておりました。」
建物のエントランスで俺達を迎えたのは、従者の女性。長い巻髪を揺らし深く頭を下げた彼女が俺を、そして俺達を見渡し入り口の大扉を開いた。
「初めまして。オズ・ベザリウスです。」
「私は・嬢付きの従者、オリヴィア・アクセルと申します。本日は遠いところをお越しいただきありがとうございます。様のお部屋まで私が案内させていただきます。」
ニコリ、と笑うオリヴィアはとても綺麗な女性で、反応した心臓がドクドク鳴る。琥珀の瞳、藍色の髪。美しさもそうだけれど、寧ろそれよりも彼女が発した『』という家名に俺は驚いた。
「・・・。」
「なんだ、そのというのは。」
覗きこみ問うアリスに軽い視線を向け、手を顎に当て顔を顰めた。アリスの隣ではギルが目を床に落としながら足を前に進めている。
「家。四大公の信頼が厚い公爵家だよ。確か当主のあだ名が『変人』っていう・・・。」
「ピンポーン。」
背後で上がった陽気な声に足を止めた俺達は、発言の主ブレイクを振り返る。ブレイクは人差し指を天井に向け、薄く目を開き口元に笑みを浮かべる。
「そう、ここは家の本邸。すでに聞かれたと思いますガ、紹介したいというのは・、まさにその人です。ちなみに公爵が変人と呼ばれていることも正解デス。」
「ねぇ、ブレイク。って女性の名前だよね?」
ええ、そうですよ。肯定の返事を返され、引っかかっていた昔の話を思い出した。
「家唯一の女性で、」
オリヴィアさんとブレイク、そしてシャロンちゃんの視線が少し、本当に少しだけどきつくなった雰囲気を肌に感じる。
「精神病で、何度も自殺未遂してるっていう。」
「自殺?何だそれは。何てネガティブな人間だ。」
「俺も本当のところは知らないんだ。ただ、恋人を失って気違いになったって話を聞いただけで・・・。」
ブレイクの反応の無さを見て、その話が恐らく事実なのだろうと思った。マズイ発言をしてしまった、と言葉を改めようとしていた時、オリヴィアさんが綺麗な口元を動かした。
「オズ様、お言葉を正さなくとも仰られたことは事実です。ですがそれは昔の事。様はもうそのような面影を残してはおりません。」
大丈夫ですよ。
先導するオリヴィアさんの後を歩き、絵や彫刻がセンス良く置かれた廊下をひたすら歩いた。溶ける蝋の匂いが廊下を満たしている。そんな薫に混じって、どこかで嗅いだことのある甘い匂いが前方にいるオリヴィアさんから漂ってきた。
「お嬢様、オズ・ベザリウス様御一行をお連れ致しました。」
赤茶色の重い扉、その中で机に座り紅茶を飲んでいた女性は俺達の姿を確認して持っていたティーカップをソーサの上に戻した。背後では薄く開けられた窓から入り込む風が深紅のカーテンを揺らしている。
「あなたが・・・。」
「・と申します。お会いできて光栄です、オズ様。」
異常に細すぎる体形に、明るい緑色のドレスを揺らす女性が立ちあがる。ニッコリと笑みを作り、ソファーに座るよう促され腰を落ちつけた。
「ブレイクにあなた様のことを聞いた時は驚きました。10年ぶりの現実世界はいかがですか?」
「え、あ・・・はい。色々変わっていて。でも、大分慣れたと思います。」
「そうですか。それは良かった。」
ジッと俺とさんの会話に耳を傾けるシャロンちゃんは出された紅茶を手にしていて、ギルはさんと目を合わそうとしない。
そして従者同士、ソファーの後ろに立つオリヴィアさんとブレイク。
違和感が、そこにあった。
「あの、様。」
「どうぞ、と呼んで下さい。」
「じゃぁ・・・さん。」
100%確かではないけれど、この女性は公爵家の人間ではないと勘が告げていた。
「俺、昔あなたにあったことがあります。」
瞳を大きくする目の前の女性は少し顎を引く。
「オスカー叔父さんに用があってベザリウス家に来ていたあなたが、あの時俺にくれたあの花、なんの花だったか覚えていますか?」
さんは相変わらず瞳を大きくしている。その横で、シャロンちゃんが視線を上げ、ジッと俺と、背後に立つ2人の従者に目を配らせる。
「・・・バラだったかしら。」
「残念ですが違います。」
彼女に会ったのは一度だけだった。ギルが従者になる数年前、エイダと屋敷で遊んでいた時に偶然ぶつかってしまった笑顔の優しい人。
「あれはストックの花だった。」
どんな顔立だったか、どんな声だったかは覚えていないけれど、中庭のベンチに一緒に座って数十分話をした女の人。父親に恵まれていない俺のことを知ってか知らずか、花壇に咲いていたストックを一輪手折って俺の手に握らせた。その上から包むように重ねられた2つの手は俺の手よりも大きくて、まるで知らない母がそこにいるようだった。
『この花の花言葉、知ってる?』
『ハナコトバ?』
『そう。全ての花にはそれぞれ意味があるの。この花、ストックの花言葉は見つめる未来。』
ベンチに座る俺、そして俺の前で膝を地面につく女の人は言う。
『過去よりも、そして今よりも、あなたの未来に、あなたがこれから行くその先にいつも幸せがあることを忘れないで。』
俺はあの時、彼女が伝えようとする言葉の意味を分かっていなかった。
本当に理解したのは、父親に拒絶された、あの時。どんなことがあっても、足を止めてはいけないと彼女の言葉を思い出し、先にあるかもしれない幸せをどうにかして手に入れようとした。
「大きくなって、家の娘さんが・・・あの時のさんが自殺未遂を何度もしてるって聞いた時信じられなかった。」
あなたが言ったのに・・・未来には幸せがいくつもあるんだって。
だから、歩んでいかなければダメなんだって。
「自分で人生を終わらせてしまうような、そんな人じゃないって誰が何と言おうと信じてた。だから・・・。」
だから、嬉しんだ。
「さんが生きていてくれたことが、俺は嬉しいよ!」
シャロンちゃんが、微笑んだ。そして、隣に座るギルが俺の頭に手を置いて優しく撫でてくれる。
目の前に座る緑のドレスを着た女性に、もう視線は向けない。俺が話をしたいのはこの人じゃなくて、
「立派になられましたね、オズ様。」
ブレイクと並び、背後からずっと視線を送っていたこの女性だから。