真っ暗な闇の頭上に赤い満月が浮かぶ夜、時計の針が深夜12時の鐘を一つ鳴らした。静まり返ったレインズワースの屋敷の裏口を鍵で開け、使用人用の母屋を突っ切る。この時間、起きている使用人はいない。
カツンカツンと耳を澄まさなければ聞こえない足音が中央階段を上に上がっていく。規則正しいその音が鳴り止んだのはレインズワース女公爵の書斎前。立ち止まった女は羽織っていたストールを巻きなおし、黒のイブニングドレスを叩いて正した。白く細い手が扉をノックしようとする寸前、サイドから視界に姿を見せた人物に掛けかけていた手を止め、ゆっくりと瞳を向ける。
ああ、気まずい。そう女は思った。
片手に握られている仕込み杖、腕を体の前で組み、体の片方は壁に預けられている。呆れたように、いや、少し怒ったように立つ銀髪の男に女は愛想良く笑いかけた。
「ごめんなさい。」
今晩食事に誘われていたのをドタキャンした私が悪い。
「せっかく時間を空けて・・・この私がレストランまで予約したというのに。」
『お前ドタキャンなんていい根性ダナ!』
顔を顰めブツブツ言うザークシーズとエミリーに顔の前で両手を合わせて頭を下げる。
「兄さんが体調崩して、私が今夜の殺しの代行にされちゃったの。本当にごめん!まさか一人で行って食べた?」
「そんな痛いコトするわけないでしょう。今日の仕事ってパール様が引き受けられたというアレですカ?」
「そうそれ。」
レインズワースがに頼んだある男の殺害。この数年、産業界で異様に力をつけていた男を害になると判断したレインズワースは抹殺することを決めた。つまりは公爵家の裏事業。全ての情報を知っているわけではない。ただ、公爵家を取り仕切る者、そして家を代表する従者達は裏の情報に精通していることも役割の内。
知らなければ、それが仇になることもある。
「レインズワースからの仕事は私達にとって絶対。『ザクスとデートだから無理』とは流石にウチの当主に言えなかった。」
「・・・私がキリル様に殺されてしまうよ。」
そうね。笑う彼女の頬に手の甲を当てる。
「家の為、人を殺める度私やレイムさんに泣きついていたあなたが、」
瞳を大きくするが私を見上げる。
外見は当時からさほど変っていないのに。
人間の内面は変る。
「人を殺しても何とも思わなくなる年月が過ぎていったんですね。」
言葉が落下する。
もう、十余年。言葉にすれば短い年月を私達はレインズワースという同じフィールドで生きてきた。
私は従者として、彼女は罪を請け負う者として。
「全く悲しいことね。」
当てられた手に頬ずりをするように目を瞑り苦く笑う彼女に甘えられているようだと目を細める。手が伝えるの温度は相変わらず低かった。
「腐れ縁に免じて今回は許してあげます。」
「埋め合わせは来週にでも。」
「あまり期待しないで楽しみにしてマス。それはそうと、シェリル様ならバルマ公爵を訪ねられてからまだお帰りになってませんよ。」
「ええええ。それって無駄足だったってこと?」
ガックリ肩を落としたが溜息を吐いて手を額に当てた。
「お留守なら仕方ないね。」
「お帰りになるまで待ちますカ?」
「え、いいの?」
「この間みたいに酔った勢いで部屋を大変なことにしなければ入れてあげます。」
思い出すのは2カ月前のこと。
例のフェイクウェディング事件が終わりレイムと3人で打ち上げだと呑んだ記憶は新しい。
大量の酒瓶を開け、普段はなかなか酔わない彼女にアルコールの力が効き始めたと同じ頃、ストレス発散だとばかりに私の部屋を滅茶苦茶にした挙句の果て『暑くて死ぬ』と服を脱ぎ始めた女。
見るに堪えない程顔を赤くしてパニックになったレイムを屋敷に強制送還させ、床で眠り始めた下着姿の女を自分のベッドに寝かせつけた。
『・・・全く。人の気も知らないで。』
それよりも大変だったのはその翌日だ。
『何で私がザクスに抱かれながら寝てるの?』
『今さら何言ってるんですか。』
目を覚ました女にビンタで起こされ目覚めは最悪。悪びれもなくそんなことを言えばクッションを投げられ『あんたにはシャロンが!』と反抗される。
『何度言えば分かるんです?私はお嬢様にあなたが言う恋愛感情なんて持ってません。』
『嘘つき。』
『嘘をついてどうするんです。大体、男の部屋で酔っぱらって服を脱ぎだしたが悪いんですよ。』
え、?短い感嘆詞を吐いた女がゆっくりとシーツを上げ、さらされた全身の肌を目にした瞬間、彼女は頬を桃色に染める。
『襲われなかっただけありがたいとおもいなさい。』
『酔った女を手にかけるなんて最低!』
『はぁ?だから昨日は抱いてないって・・・ぶッ!!』
ベッドの上にあったクッションが全て同時に顔面へ飛んできた。
「あれは事故だったの。アルコールという名の。」
「どーだか。フラメルまで出された時はさすがに命の危機を感じましタ。」
積もる言い訳は部屋で聞きますヨ。
促すザークシーズはまるで当たり前のように私の腰に手を添え、エスコートするように歩き出す。
蝋燭の明りが揺れる長い回廊を歩きながら、私と彼はどういう関係なのだろうと毎度同じ質問を自身に投げかけてみるけれど、その答えは出そうになかった。
いや、すでに出ているのかもしれない。
ただそれを知り、自覚してしまうことを私達はきっと赦されていないのだ。