(疲れた。これは近日稀に見る疲労だ。)
川を下りダッシュで帰宅した自宅で熱いお湯に身を沈めた。血流が一気に倍増して、バスローブを羽織ると同時に襲ってきたのは倦怠感。
眠いし、疲れたし、お腹が空いた。
「お嬢様、言葉に出てます。」
「え、嘘。」
「お食事も持って来ましたからちゃんと召し上がって下さい。腹が減っては戦はできぬ。そんなことでは喧嘩負けしてしまいますよ。」
「え!!!野菜のキッシュだ!わーい。」
机に突っ伏していたところ、オリヴィアが皿を運んで銀のフタをパカリとあける。すると漂ってきた香りに舌鼓。嗅覚に刺激された胃がぐゥ・・・と音を鳴らした。
「ではワインと一緒にいただきまー・・・。」
ガチャリ。
ガチャリ?
フォークにキッシュの欠片を乗せ大口を開け食らい付こうとしていたところ、部屋の扉が開く。何てバッドタイミングなんだとガックリ肩を降ろし見据える先。そこには待っていたお客様が、予想しなかった客を連れて立っていた。
「こんばんは、。」
レイムが逃げないようにガッチリ腕を組んで笑顔で手を振るザークシーズ・ブレイクに
「・・・すまん。邪魔をする。」
青い顔で眼鏡を抑える囚われのレイム・ルネット。
「お返ししますヨ、これ。」
刃物の飛ぶ軌道上に立っていたオリヴィアがヒョイっと避けて2人に飲みたい紅茶の銘柄を尋ねた。そして私のキッシュの皿の数センチ手前に突き刺さったダガーに笑う。
別に拾ってこなくても良かったのに。ああ、私のアンティークの机に亀裂が。
「ちょっと待ってて2人共。お腹空いて死にそうだからとりあえず食べさせて!」
お願い、と両手を顔の前で合わせ懇願するとレイムが呆れた表情を見せ大きな溜息を吐いた。
「何て緊張感のない奴なんだ・・・。」
「らしいですけどネ。オリヴィア、オレンジペコーいただけますか?あ、今回は毒なしで。」
「かしこまりました。レイム様はいかがしますか?」
「ジャスミンティーがあればそれを。」
「はい。どうぞお二方ともお掛け下さい。私はケーキを取りに・・・様他に持ってくるものあります?」
「んー。スープの残りがあったら持ってきて。」
「はーい。」
ムシャムシャ。
カツンカツン。
フォークと口が動く音が室内を支配する。そんなに腹が減っていたのか。それより市内での2人の攻防戦はどうなったんだ?ブロッドバーストの女は?
そんな無知の焦りが募り、オドオドし始めた俺の頬を掴み横に引っ張るのはザークシーズ。
「落ち着きたまえよ。」
さっきまでバルマ公爵家で精神的な拷問に近い問い詰めを浴びていた俺はこの男の本当に恐い処を知った。勝手に風呂まで入って来て、俺を驚かせた男は何らかの覚悟を決めているように告げる。
『私に毒を盛るなんて、付き合いがあと1年浅ければ殺してましたヨ。今からのとこにいきます。あなたも来なさい。』
「さあ、どうぞ召し上がって下さい。殿方も腹が減っては戦は出来ぬ。満腹になったお嬢様に喧嘩負けなどされませんように。毒は入ってませんから。」
差し出された多くのケーキにザークシーズが早速手をつけた。彼も腹が減っていたのだろう。いつもより食べるペースが速い。
「オリヴィア、あなた誰の見方なの?」
ナプキンで口元を丁寧に押さえるに、従者は笑う。
「私は中性な人間です。猛獣たちの戦いに巻き込まれるのもごめんですし。」
ニッコリ、まるで悪気なく放った彼女に主であるが噴出した。
「さすがオリヴィア。」
あはは、と退けぞるは手を額に当て、一度天井を仰ぐ。
そして次に頬肘をついて俺たちに目を細めた。
「じゃぁ、まあ。お腹も癒えたところで、オリヴィアがいうとこの『喧嘩』始めましょうか。ザークシーズ。」
皿をフォークを静かに置く男が一度目を伏せた。そしてゆっくりと開かれる紅い右目。
その瞳の真剣さに私の手には汗が浮かんだ。
「では、この件を任されたパンドラの構成員としてお話を伺いますが。」
立ち上がった、そしてザークシーズ。彼の靴底が彼女へ向かい音を鳴らす。ザークシーズが腰掛けていた俺の隣にはオリヴィアが座り、顎を引く。彼女は本当に2人の間に割って入る気はないようだった。
「あなた、一体何を知ってるんデス?」
の前に立ったザークシーズが掴んだのは彼女の羽織るバスローブの襟。胸倉をつかまれ、紅い目に睨まれる女は口元に笑みさえ浮かべていた。肩眉を吊り上げ、まるで挑発するかのような彼女の態度。
ザークシーズは手首を捻ることで布ごと彼女の首を締め上げている。まさか殺す気はないだろうが、この脅しはさっき俺に見せた物の何倍も恐い。
俺はとてつもなく焦っている。俺の目的は冷静な話し合いのはずだったのに。
「何を悶絶されてるんですか。あのお二方ですから私は最初からまともな話し合いなんて無理だと分かってましたよ。」
俺の心の叫びを見透かしたオリヴィアがいけしゃあしゃあと放った。
「綺麗な紅い目。」
が目の前の男の目元に指をなぞらせ言う。それはとても淡々と。
「でも、ブロッドバーストの世継ぎが持つ赤には叶わないね。」
その言葉にザークシーズの気が一瞬緩んだ瞬間を彼女は見逃さなかった。
「・・・ッ。」
ザークシーズの足をかけたのは彼女のハイヒール。ヒールの柱と靴底の隙間に彼の足首を入れた女が自分よりも大きな身体を横へ倒す。そのままザークシーズが床に叩きつけられることはなく、とりあえず胸元を離されたが背を向けた。
「あなたもレイムも話してくれたもんね・・・。」
キースのこと。
「今日は私が話す番。どうぞ座って、ザクス。」
差し出したのは、彼女がいつも座っている仕事机用の椅子。まだザークシーズは完全に警戒を解いていない。椅子を引き、言葉を発せず腰を落ち着かせた彼を見て、は机に腰を下ろして置かれていたワイングラスをなぞった。
「そうだね。どこから話せばいいのやら。」
あー、と首を傾げていた彼女がまるで閃いたように頭を前に倒し、腰辺りで結んでいたバスローブの紐に手をかける。
俺とオリヴィアに見えないように、ザークシーズの前で裸体を晒した女の行動に眼鏡を抑える。俺は見えもしないのに羞恥心で目を2人から逸らしていた。恐る恐る戻す視線。ザークシーズは彼女の体の一点を凝視しているのだろう。髪に覆われた瞳の表情は見えない。
「なぜ・・・。なぜこんな大切なことを。」
顔を上げたザークシーズの様子が、おかしい。いつも携帯している落ち着きがない。彼女の肩を揺する男の紅い瞳は悲痛な色を見せていた。
「なぜ黙っていたんですカ!?あなたがブロッドバーストに関係のある人間だと分かっていたら、私はこの仕事を引き受けなかった。」
彼を見る彼女の視線はどこまでも優しい。もう、全てを覚悟し受け入れた人間が見せられるまるで慈愛のような目。
「私は四大公から命が下れば、当時に関わる人間を殺さなければならない!」
「ええ、知ってる。」
あまりにも落ち着いた声に、覚悟は出来ていると言わんばかりの意志。
ザークシーズの顎を持った彼女の顔が降りてくる。何も言わず、彼の唇に自分のそれを重ねた女は目を閉じた。
初めて見た。この2人が他人の前でこういった行為をするところ。
とても名残惜しそうにリップ音だけが残された室内にが流した涙が落下した。泣いているのか、いないのか。嗚咽も上げず、涙だけが流れる。
「・・・レイムさん、隣の部屋で待機しましょう。今は2人きりに。」
オリヴィアに促され立ち上がる。
「ああ。」
彼を見下ろす彼女の表情は澄んで、切ない。観念したように自嘲して、ザークシーズの頬に手を置いた女と、向き合う男。そんな2人を置いて、部屋を出る。
きっと、きっと上手くいくそんな客観的な未来を誰かに願いながら。