ニヤリ、笑う男は川沿いのプロムナーデに腰掛け横に置いていた仕込み杖に手をかけた。誰もいないレベイユの中心地を下流に下ったエリザ地区。例の女の目撃情報が一番多いこの地区から検索した甲斐があった。
みすぼらしい格好をした女がフラフラと歩いてくる。
「フラロヴァ・・・。フラロヴァ・・・・。フラロヴァ・・・・。フラロヴァ・・・・。」
まるで呪文のようにこの一言を繰り返しながら。開かれた動向は曇りきっている。視えているのだろうか。瞬きもしないその異様さに、とりあえず目的の人物を見つけたと重い腰を上げた。
「こんばんは、お嬢さん。」
汚れた麻の布を纏う女が立ち止まり、機械のように首を廻す。ゴキゴキと効果音つきだ。これではまるで屍、そうザークシーズは思う。
「少しお話しませんカ?」
ペロペロキャンディを取り出し口に含む男が帽子の唾を下げる。女は言葉を発しない。そんな彼女を見かねた男が近づく。
「君にはあるのかな、マレフィキウムの烙印。」
ニコリ。裂けそうな口を引き伸ばし笑う女の瞳が隠れた。鼻まで長い髪に覆われ、表情を伺えるのは口の動きだけ。
「気味が悪いですヨ。」
ねぇ?今度ニヤリと笑ったのは男だった。女の長い前髪を掴み上げ、身体を宙に浮かす。ギョロリ、また姿を見せた赤い眼に目を細める。
「今度は見えているようですね。曇っていない眼はずいぶん綺麗じゃないですか。」
赤より赤い目。調査書にはそうあったか。
女はギョロリ、瞳を男に向ける。そして焦点を合わせ、今度は動かさない。動いたのは口のみ。呪われたように繰り返し発せられる言葉は変らない。
「フラロヴァ・・・。フラロヴァ・・・・。フラロヴァ・・・。」
「話を聞きたくてもそれ以外に口が利けないんじゃ意味がありませんネ。」
仕込み杖を持った反対の手を女の首に伸ばす。そして杖をキツク首元に当てた男は女の首に圧力をかけた。まるで首と中の気道を押し潰さんとばかりに。
「フ・・・・。ラァ・・・・ロ。」
「死ぬ一歩まで、逝って下さい。起きていられると運ぶのが面倒なので。」
あと6秒。
押し付ければ女は酸欠になる。
あと5秒。
4。3。2。
ヒュン。
男は思わず身を引く。押し付けていた杖はそのまま胴だけを後方へずらした。刹那男と女の間をすり抜けていったのは、ダガー。鋭利なそれはガキンと音を鳴らしプロムナーデの煉瓦に突き刺さった。
胴を倒した際、前に流れた男の髪が数本宙を舞っている。まるでスローモーションのような出来事。今も尚身体が後ろに倒れる中、男はダガーが飛んできたほうへ目を向けた。
「・・・。」
掴んでいた赤目の女を地面に落っことし、レンガに突き刺さったそのナイフを抜く。恐ろしいほど磨がれたそれに手を添える。それだけで肌に線が一本引かれた。傷口から血液は溢れない。鋭利過ぎて痛みすら感じない。
「申し分かりませんが、今夜はこれまでのようです。ちゃんと帰りなさいね、お嬢さん。」
地面に落ちたまま起き上がらない女を杖で横へ弾き、男はその先を街中に向かい真直ぐ歩き出す。
口元に笑みを浮かべ。
とても、とても楽しそうな目元を作り。
「追いかけっこならお付き合いしますヨ。」
そして軽い身振りで走り出す。暗闇と建物しかない街の闇へ。レンガ造りの建物の間をすり抜け、ある角を曲がったところで男は持っていたダガーを投げた。一瞬の静寂、そして100メートルほど先で刃物が壁に突き刺さった音が鳴る。
(げ、あぶなッ!!!!!)
いきなり飛んできたダガーをかわしたのは最後の一瞬。身体の起動を外さなければ腹部に命中していたところだった。あの男、この恐怖の追いかけっこを絶対楽しんでる。ダガーへの反応が遅れたのは彼に殺気がなかったからだ。
さっきザークシーズの顔面を狙った私が言うことではないけれど、手加減しろよ!!
(鬼ごっこは得意だけど。得意なのは逃げるほうじゃなくて、追う方なんだよね。)
「お嬢様。分かれますか?」
隣を駆けるオリヴィアの提案に頷く。
「ええ。屋敷で落ち合いましょう。お客様用にケーキも用意しておいて。」
「毒は?」
「・・・いらないわ。気をつけてね。」
「それは私の台詞です。どうかご無事で。」
私は左へ。彼女はまっすぐ。
この辺の地理には詳しくないけれど、川沿いまで出れば屋敷に帰れる。左を選んだのは勘だったけれど、前方に立ちはだかる煉瓦の壁を目の当たりにして自分の勘のなさを痛感した。
(これは飛ぶしか−)
足で地面を蹴ろうと助走を駆けた。けれど、次の瞬間には急ブレーキを踏むように身体が自身にストップをかけた。
「・・・ッ!!!!(この気配。まさか壁の向こうに。)」
前方になだれ込む身体が一度見せた宙返り。左足を地面について、今度は来た道を戻りかける。その2秒後に背後で響いた瓦礫の音。判断は正しかった。
「あららぁ。ばれちゃいましたか。」
鞘を抜いた剣をヒュンヒュンと廻しながら煙の向こう側から現れた男に目元が引き攣る。
(川!どこなの川!!このままじゃ殺される。レイムの馬鹿!任せろなんて言っておいて全然役に立ってないじゃない!)
今はきっとバルマ公の屋敷で風呂に浸かり寛いでいるだろう友人に心から叫び声を上げた。
「逃げ足が速いな。」
一般人、な訳がないか。相手はかなり出来る。それに気配を読むのが上手い。煉瓦の高い壁の前で反対側からこちらへ駆けて来る人間を待っていたというのに、あろうことか私の気配に気づき踵を返した。自分の気配は消したつもりだったのに。
「こちらも本気でやらないと逃がしそうですね。」
本気で追いかけたいのは山々だが、先ほどから咳が止まらない。
いつも混じる血は全く見られない。ただ、無性に咳が出る。
グッと押し付けられたような肺の痛みに思わず膝を地面についた。
何なんです、これ。
体調不良?
死期目前?
それとも、毒を盛られた?
誰に?
今日席を共にしたのは、友人。
「・・・ったく。レイムどうゆうつもりだい?」
建物の壁に背を預け、耳を傾ける。人間の走る足音はもう聞こえない。気配も完全に消え、いつものレベイユの夜の静けさが漂うだけ。肺の痛みが消えうせていく。量も毒素もあまりないものを口にしたのだろう。レイムが盛ったと見て間違いない毒は私を殺すためではないということだ。
彼は私が今夜仕事なのを知っていた。
行動に出たのは、彼女の手助けか。
雨に湿った地面の薫りが漂う街に、混じっている香水の薫り。この匂いを間違うわけがないと、私は自信を持てる。
「どんな香水もつける人間によって微弱に匂いが変るからネ。」
やはり、仕事部屋に忍び込んだのは彼女か彼女の部下。
休暇に出ると嘘までついて・・・
「、君は一体何がしたいんだい。」
本気の追いかけっこで恋人の女に負けたなんて、シャロンには聞かせられない。
肺が落ち着いたところで落とした剣を拾い、歩き出す。
今夜はややこしい夜になりそうだ、そんな予感に満たされていた。