アスパラサラダ
当時、セフィーロには珍しく雨が降っていた。
久しぶりの雨に喜ぶものが多かったが、嫌な予感をも感じていた。
自室で独り何事もなければいいと願ったが、その二時間後願いは天に通じていなかったと知る。
足を引きずるように帰宅したゼストを見た使用人が私の元へ駆け込んできた時の形相は、その切迫さを物語る。
急いで城門まで降りて目にしたのは、降り続く雨に打たれ動こうとしない我が師。
マントに付着したおびただしい血は、雨にぼかされ布のマントを伝い広がり続けた。
目の前で崩れている男が負傷しているのだろうと私も、私を始めゼストを門で迎えたもの達がみなそう思った。
しかし世話係が急いでマントを脱がせると、そこに傷は一つもない。
「俺は無傷だ。」
杖を頼りに起き上がろうとするゼストの姿は哀れだった。
「ベレット、悪いが私と共に導師を癒室まで運んでくれないか。他の者はもう休んでくれ、明日またよろしく頼む。」
私の問いに快く頷く彼女は城の執事の娘。
それなりの教育を受けているだけあって、他人にとって不利になるようなことは決して他言しない。
空を見上げて雨の様子を覗うが、強さを増す一方で上がる気配は全くなかった。
「クレフ様、私は薬湯の準備をしてまいります。」
導師を床に寝かせ、気を効かせてだろう部屋を後にする理由をつけた彼女をやはり出来た娘だと思う。
「すまないな。ありがとう。」
私の言葉に軽く頬笑み出て行く姿を見送って、血まみれのマントに視線を移す。
「導師・・・。人を殺したのですか。」
マントの血がゼストのものでないとすれば誰のものだ。
これは精獣の血でもなければ魔物の血でもない。
間違えなく人間のもの。
その答えを聞くことができるのはずっとずっと先の話。
ゼストはそれから50年間、目を覚ますことはなかった。
生きている。
だが導の役目が行えない以上、導師であることは許されない。
ゼストはもはやセフィーロの導師ではなくなった。
ヴェルナ様と幸せに暮らしていた時のゼスト・ローレルに戻ったのだ。
柱によって指名された私はこんな形で導師になった。
不本意だったわけではないが、まさかこんなに早く就かなければならないと思わなかった戸惑いは隠せなかった。
仕事を始めてからゼストが私に見せなかった導師と言う職の大変さを身を持って経験することになった。
やっと一人前にこなせるようになったのはその20年後、弟子を持つようになったのは40年後。
記憶を薄れさせるのに50年は充分な時間ではない。
あの衝撃的な夜の出来事は、柱こそ知らないものの今でも昨日のように鮮明に思い出すことができる。
そして600年経った今、550年前に目を覚ましたゼストが私に言ったことを私は昨日のように口にすることができる。
まだ日も明けないというのに私の部屋を激しくノックする音に重い体を起こせば、いきなり飛び込んでくるベレット。
「クレフ様、一緒に来てください!ゼスト様がッ・・・!」
男の名を耳にした瞬間、纏わりついていた眠気は一瞬で飛んでいった。
掛けてあったローブを手に取り、羽織もせずに駆け出した回廊は冷え込んでいた。
ゼストが50年の間眠りについていた部屋は昔、彼が導師として使用していた部屋だ。
いつもならば本棚に、机に、ベットに横たわる男が一人。だが今日は本棚に、机に、ベットに座る男が一人。
50年の月日の中で髪は真っ白になり、窶れは止まらず頬はこける一方。
その顔から、雰囲気から嘗ての威厳は全く感じられない。
「私を覚えていらっしゃいますか。」
男は静かに目を開くと虚ろに私の顔へ瞳を動かし、皺枯れた唇を動かす。
「クレ・・・。いや、導師クレフ。」
目覚めたことにほっとしたのだろうか。それとも自分の師が、私の存在を忘れていなかったことを嬉しく思ったのだろうか、少し胸が熱くなった。
そんな私達の姿をみて、ベレットが部屋を出て行こうとした瞬間、
「50年間、こんな俺の面倒をみてくれたのは君だね。ありがとう。」
そう発したことばは柔らかくて、振り返った彼女は泣きそうな表情をしていた。
夜の暗さが終わりを告げると同時に遠くの空が赤みを増してきた。
それは暗い長い眠りから還ってきた男の50年を表しているかのようだった。
まだ姿を現さない太陽に、私はこの日を迎えられたことを心から感謝した。
「よろしかったら、話してはくださいませんか。50年前のあの夜、一体何があったのかを。」
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