伝説之三十二
ここに来るのは何十年ぶりだろうか。
最後にここの風景を見たのはもしかしたら百年以上昔のことだったかもしれない。
前方に見えるのは、緑。
昔はここに家が一件あり、庭には手入れされた薬草の花壇があり、シエスタという男がいた。
そして、という少女が当時の歌法伝来師と共に住んでいた。
目を細め、私が覚えている当時の情景を今の景色に重ねてみる。もう何十年も前の話だ。
あの頃の面影を見つけ出すことは、あたりまえだが叶わなかった。
足を敷地内に一歩踏み出すと、人間など見たこともないのであろう植物達がざわめいた。
風など全く吹いていない月夜、ざわざわと体を揺らす。聞こえるのは葉と葉が摺れる音のみだ。
「悪いが通してくれ。」
移動魔法陣が消えないように円の中に杖を突き刺し、10メートルほど離れたところにある小さな丘に向かって歩き出した。
一歩一歩を踏み出すたびに、自動で掻き分けられていく草達は、昔が育てていた薬草の子孫なのかもしれない。
シエスタと彼女が住んでいた家は、木や草に埋もれて「小さな丘」にしか見えなかった。
「ここがお前の住処なのか。」
あごを軽く引いて、呟いた言葉は本人に届いていたようだ。自分の背後に忍び寄る気配に気づかないわけがない。
『それは違うかな。住んでいるのは別のところ。』
ゆっくり振り向くと、夢の中に現れたリバティと全く同じ容姿、声の少年が立っていた。
腕の中に、ありえない存在を抱えて。
「!!!」
『そう。この体は君に返さなければと思って呼んだんだ。数日君たちの前から消えた彼女の魂と体は僕の元へ来た。
僕の力を授けるためにね。今は、精神というものが入っていないただの屍だけれど、彼女が帰ってきた時に必要となるからそれまで大切に保存しておくといい。』
己の長い長い爪での肌を傷つけないように几帳面にその体を抱える腕はその体を私の前に横たえた。
本当に、まるで眠っているようなの表情は最後に見たあの泣き顔ではない、何よりも淑やかに、澄み切っていた。
「…帰ってくるのだな。」
『どうだろう。彼女次第だ。君はすでに伝説記を読んでいるだろうけれど、二つ目の伝説の説明には語弊がある。』
「語弊?」
『伝説記に記されていた「荒廃した星」という言葉を導師、君ならどう理解する。』
眉間に皺をよせリバティが言わんとすることを予測してみる。これがネガティブなものになるのであろうことは楽に予想が付いた。
『もう千年以上前に僕が送ったアストラっていう歌法伝来師はね、ある小惑星に送られた。
その星には土しかなくて、いつか隕石となって他の星にぶつかるだけの文字通り、ただのゴミ惑星だったけれど、毎回そうとは限らないんだ。』
アストラは運が良かったからね。そう続けるリバティの表情は憂いを含んでいて、哀れむように私に視線を送り続ける。
『一つだけ言っておく、荒廃した星とは、その星そのものが持続できる可能性がもうない星、という意味。生命がいたとしても、荒廃した星として扱われるんだ。』
「…なんだと。」
体中に電撃が走ったかのような鳥肌に襲われ、私は無意識にリバティから後ずさりをしていた。
『伝説記に君が追記するといい、今後同じような誤解を招かないように。そして祈るといい、彼女が使わされた星が生命のいない星であることを。彼女が今どこにいるかは僕にもわからないからね。用はそれだけだ。』
じゃぁ、と背を向け消えようとする少年を、私は反射的に呼び止めた。
「待て!!」
『まだ、何か?』
「なぜお前はそんな助言をわざわざ伝えるために、私の夢の中に入り込むななんてリスクを犯したのだ。
もし私が結界を張っていたら、入り込む際にお前が傷ついていた可能性もあったはずだ。」
気になっていた、伝説の生き物だというのに人間慣れしているこの存在が。
そして理解できなかった、の身体を返すために私に会いにくるというこの行動が。
『…君たちとは縁があるみたいなんだ。導師、150年前、北のジープ湖のほとりで精獣を一匹助けたのを覚えているか?』
「150年前のジープ湖…。」
脳裏に一本の光が走るように呼び起こされた記憶に私は顔を上げた。
「まさかお前があのときの…。」
『そう。ウィンダムとレイアースと大喧嘩をしてね、死に掛けていた私は偶然通りかかった君に命を救われた。
皮肉だね、君があの時僕を助けなければ僕は死んでセフィーロ第二の伝説は消滅していたのに。
何より、今回僕が選んだ歌法伝来師が、君の「娘」になっていたなんて。
君に命を救われた後、一時的に力を失っていた私は普通の精獣としてある少女と暮らしたんだ。それがだった。
彼女は僕をココンと呼んだ。君が僕を助けた偶然、僕がと知り合った偶然、そして君がシエスタが死んだ後彼女を引き取った偶然が重なって、今がある。
今回君に会いに赴いたのは150年前の礼のつもりだった。
そうだ、最後に一つ。彼女がいたフルエンスの診療所の作業場にある棚に、彼女が書き続けていた日記がある。
自分が選ばれた存在だと気づいてから、彼女が自分なりに調べた第二の伝説の詳細や推測が抱えている。
伝説記は君が持つあの本だけじゃない。
彼女が持っていたもの、そしてシエスタがこの家に保管していたもの様々だ。彼女はそのことを言われなくても知っていた。
君よりも、はるかに早い段階でね。』
ふと、足から力が抜けて私は地面に膝を付いて、横たわるを見た。うつろな目をしていたと思う。
「、お前…。」
『言えなかったんだ、君には。』
彼女は、君を心底慕っていたからね。
そう残し、ふと吹いた優しい風に身を任せるように、リバティは一瞬でその場から姿を消した。
月が明るすぎる空の下、の頬に触れた手に氷のような冷たさが伝わる。
優しく眠るその表情だけが救いだった。頬を撫で、良かったと呟いた。
良かった、彼女が最後の最後まで辛い表情をせずに済んで。
久しぶりに自分の姿を成人体に戻し、横たわる体を抱きかかえた。
軽すぎる体は、彼女が健在していた頃、どれだけ食物を摂取していなかったのか物語っている。
「帰ってきてくれ。」
まるで力のない声色が情けなかった。そしての頬に落ちた涙は間違いなく自分のもので、それを隠すために彼女の長い髪に顔を埋めた。
城へ続く移動魔法陣までの距離が、遠く遠く感じられる夜、
そんな彼と、冷たい体の彼女の遙か頭上で、大きな流れ星が一つ軌道を横切った。
光に包まれ、まるで意識だけが攫われたかのように今まで映し出されていたという人物の過去の記憶に見入っていた。
目を開けると光はすでに消えていて、自分の目頭に熱い涙が今にも流れそうになっている。
横を見れば、隣にいる風はすでに涙を流し、顔を手で覆い、ランティスは悔しそうにただ今だ前方にいるリバティに視線を向けたまま。
『これがリバティの主となった者が歩んだセフィーロでの記憶だ。』
セレスが心に語りかける。
先ほどまで怒りに満ちていたリバティは落ち着きを取り戻したかのように澄んだ瞳をこちらに向けていた。
「…こんなことがあったなんて。」
思い出した。東京で会ったのあの悲しそうな表情を。
彼女が今でも背負っている記憶がこんなにも儚く、辛いものであるとリバティが私達に見せなければ知る由もなかったはずだ。
『導師よ。』
静かにクレフを見つめ、頼むから、と言わんばかりの声色はやるせなさに満ちていた。
『見当が付いているならば、この先は君が彼らに話すんだ。』
同時にリバティが投げたバカラという本が、私達の方へ飛んできた。
その本がクレフの目の前に落下し、拾い上げた彼は「わかった。」そう一言呟いて、私達に向き直った。
