爽やかなフレーバーが前方から風に運ばれてくる。

登校時、私はほぼ毎日と言っていいほどある男子生徒の後ろを歩いている。
通学に利用する電車が同じで、一つ前の車両に乗っている彼はいつも駅からの道、私の前を歩いている。 バトミントン用かテニス用か分からないラケットバックを背負い姿勢正しく歩く姿はとても堂々としていて、クラスの腑抜けた男子生徒達とは大違いだ。

たまにポケットから携帯を取り出して時間を確認する仕草が綺麗な人だ。きっと時間には厳しい人なのだと思う。
約束の時間に遅れないように、彼は常に歩幅と速度を計算している。




そして入れ替わる。


この桜の木の下で、彼と私の歩く位置が替わる。桜の木の下で彼を待っている同校の女子生徒の前で彼は足を止めるのだ。
流れるように長いストレートヘアが似合う女の子が、前方の彼の姿を確認した瞬間笑顔になる。
顔は見えないけれど、きっと彼は「おはよう」と彼女に笑いかけている。

行く道を外れた彼を横から追い越す。丁度同じライン上に並ぶ瞬間、あの薫が一段と強さを増す時、無意識に深く息を吸い込む。

そして1m、彼との間に空間ができるとさっきまで傍にあったフレーバーが完全に消え失せる。
同じ学校の生徒と言う以外、彼のことを何も知らないというのに、

何故かそれを悲しく思う。


「おはよう!」

校門に辿りつく数メートル手前で、クラスメイトが私の名前を呼んだ。声がする方を振り返るけれど、視界に「彼」の姿はない。

探しても見つからない相手に抱く一種の憧れが消えない。



もっと、もっと、彼の薫を楽しんでいたい。

そんなことを思っている。

















彼女が待つ木の下で足を止めなくなって3カ月が経つ。『幸村君と付き合うってこんなに難しいのね』涙交じりにそんなことを言った次の日から彼女が桜の下で俺を待っていることはなかった。

好きな子に、好きだった子に別れを告げられることには今だに慣れない。
付き合い始めてから毎日、登校時俺は彼女と手を繋いである女子生徒の後ろを歩いていた。制服を見る限り立海の生徒であることは間違いない。でも後方から彼女の顔は見えない。

前方から流れるように運ばれてくるバニラの香りに気づいたのは、春から夏に移り変わる季節だった。
一度気づいた優しい匂いがそれから毎日彼女の後ろを行く度に届くようになった。

この3カ月は、その薫がない。

前方にいる学生達に目を凝らしてみるけれど、見なれた後ろ姿は見当たらない。
従姉妹の長女が使っているきついバニラローションとは違う当たりのいいあの匂いをずっと探している。


それは優しくて、柔らかい特別な薫。



「今日もいないか。」
今日は見つけられるかもしれないというささやかな希望が無くなる。もう2カ月、全敗だ。


俺は顔も知らない女の子を今も毎日探している。















あの桜の木が、蕾から花びらを覗かせた。開花予報は当たりそうだ。来週にはこの道が桜のプロミナーデに変わる。

「明日からここに通う1年生、今年は438人だって。」

一緒に入学式用の冊子を作っている舞子が、窓の外を仰いで一度大きく背伸びをする。
例年より遅い桜の開花は、残念ながら入学式には間に合いそうにない。

「私達先輩が心を込めて作っている冊子も、明日の入学式が終わった瞬間に捨てられるんだろうね。」

神奈川でも有名なマンモス校、立海大付属への入学生は多い。それでも今年はいい方だ。去年は651人、今年2年になる後輩たちが入ってきた。ただでさえやることの多い生徒会を助けるため、2年と3年はイベント事に手伝いに駆り出される。私のクラスの担当は入学生用の冊子作り。右隣のクラスは保護者用の冊子作りに、左隣りのクラスは体育館で椅子並べ。舞子の言葉には現実味がありすぎて、ゴミ箱に捨てられる冊子を思えば作っている方が悲しくなってきた。

「私できた分生徒会室に届けてくるね。」


舞うように軽い紙も束になればこんなに重い。50冊程度をまとめて両手で持ち上げ、教室を後にする。
廊下ではサボっている男子や、立ち話をしている女子生徒が多くいた。

、お疲れ様!」
「サンキュー。」

荷物を持った私に道を開けてくれる同級生は、みんな優しい。顔を知っている生徒は少なくない。

でも、あの優しい薫だけは見つからない。

まるで捕らわれているようだと自嘲して歩く東棟の回廊、前方から私を同じように荷物を持って歩いてくる男子生徒に道を開けるため、右へ移る。

窓から差し込む春の太陽がやけに暖かい日だった。
















「こちらを使って下さい。」

久しぶりに訪れた生徒会室はいつもの穏やかさの欠片も残していなかった。
あの冷静沈着な柳生でさえ、慌ただしさを垣間見せている。

「忙しいところを悪い。」

仮入部届と入部届用の用紙を束で受け取った。これだけあれば流石に足りるだろう。不味いところを訪ねに来てしまったと柳と顔を見合わせ早々に生徒会室を後にする。明日は入学式、そして早速仮入部1日目。
春は新しいことが始まる季節、慌ただしいのは生徒会だけではなくて部活も同じだ。


「精市、俺はこのまま体育館へクラスの手伝いに戻るぞ。」
「ああ、付き合わせて悪かったね。俺もそろそろ戻らないと学級長に怒られてしまいそうだ。」

階段を1階まで降りる柳を見送って、東棟の廊下を本棟に向かい歩く。
これから待っている1年が使う教室の掃除を考えれば少し足取りが重くなる。

今日は太陽が高い。閉め切られた廊下に暖かい空気が宙を泳いでいる。ここにベンチでもあったらすぐに眠ってしまえそうな、そんな日だまりがある。そんなことを考えたら欠伸が出てきて、手で口を覆った。

丁度その時、前方の角からこちらに進路を変えた女子生徒が視界に移る。じっと前を見て歩くその子が左側へ寄ったから、俺は右側へ行く足の進路をずらす。耳元でチラリと光るピアスが良く似合う子だった。



そして、ピアスの彼女とすれ違う。
                       すれ違った瞬間に、瞳を大きくした自分。                        あのフレーバーが鼻を擽る。 明るめの髪が揺れ、起こった小さな空気の揺れに 流れたきたバニラの香りに足が止まった。                        冊子を抱いたまま、振り返る。 驚いて振り返れば、彼女も俺を振り返っていた。 目を大きく、こちらを見ている。
                       瞳が合う。                        フレーバーの持ち主は驚いた顔をしていた。                        端正な、とても綺麗な青年だった。
探したいた子をやっと見つけた。                        あの薫に学校で会うことができた。
「相変わらずいい薫だね。」
                       「そうゆうあなたも。」





まるで初めて話をする人間達の会話とは思えない内容が可笑しくて、少し笑う。笑いは柔らかい微笑みに変わって、見つめ合う。彼氏彼女同士でも、ましてや友人でもない。

でも視線だけはお互いをまるで昔から知っている恋人を映しているように焦れている。



そして2人はまた背中を向け合わせる。
まるで何事もなかったかのように、名前を聞くこともしなければ、さよならの言葉もなく。






いつか薫は消え失せて、2人がここにいた形跡は残らない。



残るのは、この日暖かい東棟の回廊で確かに2種類の薫が交わった目に見えない事実だけ。













『spoil』へ相互記念に心を込めて贈らせていただきます♪押し付けるように、はい!
『spoil』へはリンクページからどうぞ(^^*)原様、この度は相互リンクありがとうございます。
アスパラとspoilの友情がこれからより一層深まることを祈って。

[10.03.2013]