The Angle

アスコット、カルディナそしてラファーガと夕食を済ませてもはや自室化しているクレフの部屋に戻るといつもは机で仕事を片付けているクレフの姿がそこにはなかった。
『どこに行ったのかしら。』

夕食は部屋で取ると言っていたから居るものだと思っていたのに。カーディガンを脱いで椅子に掛ける。部屋の中にあるバスルームで顔を洗って溜息を一つ吐いた。何だか今日はとても眠い。夕食に出てきたセフィーロの名物だというスープが美味しくて食べ過ぎたせいだろうか、きっと体内の血液が全てお腹に送られている。
寝るには早いけれど布団に入って地球から持ってきた本でも読もうかしら、そう服が集められている一室からパジャマを取り出し寝室に足を進めると、何処にいるのか気にかけていた人物がいた。

『おかえり。』
ベッドで掛け布団を掛け、座っていたクレフは本を読んでいた。視線が上げられるとおかえり、と一言。その声が優しすぎて、鼓動が跳ねる。もう緊張する間柄でもないのに、私はこの人の動作や言葉に今でも振り回されっぱなしだ。

『た…ただいま。』
慌てる私を見た彼はフッと少し微笑んで、また視線を持っている本に戻した。クレフに見えないようにベットサイドに置いた手鏡で、顔を確認する。

変な顔をしてない、よね。
化粧はちゃんと落ちてるわよね…。
髪の毛、こんがらがってないかしら。

全部OK、オカシイところは何もない。でも、顔が赤くなっているのだけは今治そうと思ってもそう簡単にはいかない。こればかりは仕方ないと諦めてベッドに潜り込む。横になって、毛布の下で足を伸ばす。

何の本を読んでいるのだろうか。
クレフを前に横向きになって、上目で彼の本に目をやると表紙にはセフィーロの文字で何かが書かれている。この国の字だけは、今になっても読むことができない。セフィーロの文学の内容もこの人と共有できたら素敵なのに、そうは思っているけれどきっとこの先も私がこの国で書物を読める日は来ないだろう。子供向けの絵本でさえ、理解できるのは文字の横にある差し絵の意味くらいなのだから。


それにしても、やっぱり好きだ。

こうやって私が眠りに着く時間クレフが隣で本を読むことは良くあることで、私は眠りにつくその瞬間までいつも彼を見ている。彼の視線よりもずっと下から見上げるのだ。紫の長めの髪を下から見ることも、下から表情を伺うことも、普段の生活ではできない。

この瞬間だけ許される私の大好きな時間。
綺麗な横顔と、文面を追う柔らかい視線。そして肩手を本から離して髪や頬を撫でてくれる手の暖かさ。

私はこの角度が好きで堪らない。



『どうした?』
クレフが、視線を横で寝る私に落す。いつもより見入っていたことに気付かれてしまった。
既に髪に触れていた手が、髪の一房を掬ってそれを耳に掛けた。その際耳に手が触れて、私の顔がますます熱くなっていくのを感じた。

『何の本を読んでいるのかなって。』
なんとか平静を装って質問を投げかけることに成功した。

瞳に私の姿を映している彼は、今何を考えているんだろう。
撫でている手は何を感じ取っているのだろう。
言葉を発しない数秒、彼の長い睫毛が揺れた。

『…ルグラという人間が書いた小説だ。』
『小説?』

意外な一言に、驚いた。だって彼が読む本と言ったらもっぱら魔法に関する物や哲学系ばかりなのだ。

『どうやら恋愛ものだな。』
しれっと放つ彼に驚きが止まらない。

『カルディナに読めと渡された。』
『カルディナに?』
『ああ。』

カルディナがクレフから本を借りることはあっても、その逆なんてセフィーロに通うこの数年耳にしたことがない。それに彼女は今日の夕食の時、本のことなんて何も言っていなかった。
よほど素晴らしい本なのだろう。クレフは恋愛ものと言うが、その種類は様々だ。純愛から略奪愛まで恋愛の形が様々あるように、話のシナリオも多種多様。今クレフが呼んでいる本がどんな内容なのか好奇心は上昇していく。

『どんなお話なの!?』
『お前がいつか言っていた遠距離恋愛、というものだ。』

前のページをパラパラめくって、ファーレンの王妃がチゼータの国王に恋をする話だ、そう言う。それに、この本の作者はチゼータの出身者だと教えてくれた。

『私はよほどカルディナに心配されているらしい。』
苦笑するクレフの意図が、分からない。
首を傾げ、ハテナマークを頭上に飛ばす私を見た彼の手が頬に降りてくる。

『私もそれなりにそんな愛の形を体験してるから。』

ああ、そうだ。私とクレフも遠距離恋愛、なんだよね。
微笑み、一度背を曲げ頬にキスをくれる彼。下げられた眉、優しい目元、頬を撫でる指を痛いくらい近くに感じる。

『しかもファーレンとチゼータの距離など比べ物にならないくらい遠い。この本を読んで主人公達の様に辛いことも2人で乗り越えろというカルディナの思いやりだろう。』
首筋を伝って降りてくる手に、恥ずかしさで顔面が爆発しそうだ。



『もう、今日は寝ようか。』
私のおどおどした様子を笑う彼が、ほとんどページが残っていない本を横に置き、灯りを消す。倒れる身体。そして降って来たキスに、背中に回された腕。

彼が言った『寝る』という一言が睡眠を意味しているのか、はたまた別の意味で使われた言葉なのか。



それを知るのは、恥ずかしさに塗れたこの数秒後。





  • Written by ich・アスパラサラダ