枕詞

  クレフはぱっと一目見ただけで、力なくかぶりを振った。それは、ぎりぎりのところで踏ん張っていた海にとっては容赦なく崖から突き落とされるような衝撃の態度だった。

「……そんな」

掠れた声が果たして目の前のクレフに届いていたのか、定かではない。クレフは黙って視線を落としたまま、差し出された海の両掌を見つめていた。中腰で伸ばした海のその両手は、今小刻みに震えている。海は中途半端に口を開けたまま、恐る恐る視線を下げた。包み込んだ両手の中で、ハクセキレイに似た鳥が横たわっている。目も羽も閉じられていて、感じる体温がどんどん下がっていくことが嫌でも分かる。それでも、海は俄かには信じられなかった。つい昨日まで、その鳥は元気だったのに。愛くるしい薄青の瞳で、微笑みかけてくれていたのに。

「……寿命だったのだろう」
クレフのその静かな声でさえ、心に届くまでには随分と長い時間が必要だった。緩い風に、庭の草木がざわめく。視界の隅に、クレフの純白のローブが靡くのが見えた。

「…どうして…?だって、全然どこも怪我してないのよ…!」
海は乞うようにクレフを見た。彼は暫く考え込むように海の掌の中のセキレイを見つめ、一度ゆっくりと瞬きをして海を見上げてきた。その瞳の揺らぎのなさは、海が思わず身じろぎをするほどだった。

「生きとし生けるもの、全てには終わりがやってくる。この精獣は、私が幼いころより生きていた精獣だった。天寿を全うし、今がこの精獣にとって『終わり』のときだったということだろう」

クレフが言っていることが「正しい」のだということは、海も頭の片隅で理解している。だがその理解に心が追い付いていなかった。どうして    どうしてあなたはそんなに冷静でいられるの。行き場のない気持ちは、クレフに対する怒りへと変わっていた。彼に非はないと痛いほど分かっているのに、海は自分自身の心をコントロールできなかった。

「……あなた、このセフィーロで最高位の魔導師なんでしょう?!精獣を生き返らせることなんて、朝飯前    
「ウミ」 
鋭い口調でクレフが海を遮った。思わずはっと息を止めた海を、クレフが真っ直ぐに見つめてくる。 「……何人たりとも、命を左右することは許されないのだ」 返すべき言葉を失い、海はただクレフを見つめることしかできなかった。

やがて視界がぼやけてきて、クレフの顔が滲む。一度瞬きをすると、瞳から雫が零れて掌の上の鳥に落ちた。その零れた涙に誘発されるように、海は力なくその場でくずおれた。朝露に濡れた草に膝が触れて、ひんやりと冷たかった。

「……どうして…!」
海は膝の上に両手を下ろし、ぎゅっと目を閉じた。瞼の裏に、昨日見たばかりの愛くるしい鳥の顔が浮かんだ。ともすれば全ては夢で、目を開ければ何事もなかったかのようにあの嘴がこちらをつついてくるのではないか    。そう思えるほどに、海にとって今手の中の鳥が死んでしまったのだということは現実感がなかった。

海にとって、その鳥はセフィーロでのペットも同然だった。その薄青の瞳を初めて見たとき、海は何とも言えずどこか通ずるものを感じたのだった。そしてそれは鳥にとっても同様だったようで、以来海がセフィーロを訪れるたびに、どこから嗅ぎつけてくるのかその鳥は海のもとへやってくるようになった。かれこれ2年ほどの付き合いが続いていて、昨日もまた、一週間ぶりにセフィーロを訪れた海のもとへいつも通りやってきてくれていた。そして夜、海の枕元で共に眠りに就くところまでは普段通りであったというのに    常ならば軽やかに鳴くような声で海を起こしてくれていたのが、今朝はなかった。

”何人たりとも、命を左右することは許されないのだ”

クレフの言葉で、海は魔法が万能でないことを知った。クレフほどの強さを持っていたとしても、やってはいけないことがある。「寿命」    クレフはそう言った。そしてその通りなのだろうと、海も頭では分かっている。あの鳥は、きっと幸せだった。このセフィーロに生まれ、幾多の戦乱を潜って尚生き続け、そして今のこの美しく生まれ変わったセフィーロで死ぬことができた。それはきっと、幸せな一生だったのだろう。

それでも    それでも、叶うことならもう一度目を開けてほしかった。せめてこの手で、最期を見届けてあげたかった。短い交流でも、海にとってその鳥は本当に、ペット以上に大切な友人も同様だったのだ。

心に穴が開いたようだった。喪失感とはこういうものかと、海はとめどなく流れる涙にただ身を任せることしかできなかった。クレフが目の前にいるにも関わらず、海は泣き続けた。

そのとき、朝露に濡れた地面が不意にぱあっと明るい光に照らされた。それははっとするほど目映い光だったが、さすがに海の気持ちまでも照らしてくれるというわけにはいかなかった。俯いたまま、海は動くことができない。それでも、だんだんと強さを増す明かりに、海は涙が流れ続ける目をついにぎゅっと瞑ったのだった。

「……ウミ」
 やがて、クレフが静かに海の名を呼ぶ。すぐには顔を上げることができなかった海を、クレフがもう一度呼んだ。

「少し、顔を上げなさい」
クレフの声は、いつも有無を言わせぬ強さを持っていると海は思う。今だって、本当はいつまでも哀しみに浸らせて欲しいのに、クレフの声はそうはさせてくれない。海は両手で抱えた鳥を一瞬片手に預け、空いた手で簡単に頬を拭うと静かに顔を上げた。
そして、目に飛び込んできた光景に思わず息を呑んだ。

「……ここ…」
つい今しがたまで、クレフの自室にほど近い庭にいたはずが、今海たちがいるところは全く別の森だった。木々が青々と茂り、丸く開いた天上から差し込む光がちょうど海とクレフがいるところを照らしている。鳥の囀りや葉の囁き合う音が満ちたその森がどこであるのか、海は一目で分かった。このセフィーロの中でもとりわけ神聖な場所とされているところだ。

「この『精霊の森』が何故聖なる場とされているか、お前たちには話したことがなかったな」
海は斜め前に立ったクレフを見上げた。彼の携えた杖が、まだ淡い光を保っている。彼が魔法でここまで連れてきてくれたのだろうか。クレフは天を仰いだまま、穏やかな風に前髪を吹かせていた。

「セフィーロでは、『転生』が信じられている」
「……転生?」
ああ、と言ってクレフがこちらを見た。向けられる優しい笑顔に、海は何故かどくんと鼓動が高鳴るのを感じた。

「分かりやすく言えば、『生まれ変わり』だな。心の美しいものは、現世での命を終えても、また姿かたちを変えて来世での命を始めることができるとされている。そして……この『精霊の森』は、現世を全うした精霊や精獣たちが、来世へと旅立つ場所なのだ」

クレフがすっと身を屈め、海が膝の上で抱えた鳥の上に手を翳した。クレフの顔が先ほどよりも近くに見える。さらりと垂れた前髪の奥から、真っ青な瞳がこちらを見た。

「…お前の手で、逝かせてやれ」 不思議と、海は自分自身の心が落ち着いていることに気付いた。じっとクレフを見たまま一度瞬きをした、その瞳からも涙は零れない。クレフが口元を緩め、静かに頷いた。何を言われたわけでもないが、海は自分が何をすべきか分かっていた。クレフが手を離す、その動きに合わせるようにゆっくりと立ち上がると、掌に鳥を大事に抱えたまま両腕をぐっと空へ向けて伸ばした。燦燦と降り注ぐ、その太陽の光が、どうかこの子を来世へと導いてくれるように    心の中で願い、海は極限まで腕を伸ばす。
すると、どこからともなく風が吹いてきて海の長い髪を後ろへ靡かせた。差し込んでくる光のうち一条が、その強さを増す。その光は真っ直ぐに海の掌の中の鳥を照らした。やがて、掌の中がだんだんと軽くなっていく。そして風が一瞬強くなったその刹那、はっと見上げると海の掌から無数の純白の羽根が舞い上がった。それは、まるで手品のようだった。


海はすっかり何もなくなった手を静かに下ろすと、舞い上がった羽根を見上げた。不規則に舞っていた羽根はやがて風に乗り、照りつける光に導かれるようにして空へと一直線に進んでいく。
最後、空の彼方へ羽根が完全に溶けていくとき、海の耳には確かにあの鳥の鳴き声が届いた。ありがとう、と言う声さえ、聞こえた気がした。

「……こちらこそ、ありがとう」
海は天上を見上げたまま、静かに微笑んだ。瞬きをした瞳から一筋の涙が頬を伝ったが、それは先ほどまでの哀しみ一辺倒の涙とは違っていた。

不意に、海は右手に触れる温もりを覚えてはっと視線を落とした。その温もりの正体はクレフの手だった。海と同じように天を仰いだまま、クレフは穏やかな笑みを携え、海の手を優しく握ってくれていた。そのまま、クレフは海を一瞥しただけで何も言わなかった。海もまた、再び視線を空へ戻す。

「……ありがとう、クレフ」

海はクレフの手を軽く握り返した。
この人がいてくれて本当に良かったと、海は心から思った。多くを語らなくても、クレフは人を導くことができる人なのだ。



繋いだ手のまま、二人は静かに歩き出した。思えば、こんな風に二人きりでゆっくりと話すことなど久しぶりかもしれない。いつもはこちらが小走りをしなければ追い付けないほど早く歩くクレフが、今は遅い足取りで歩いている。さりげなく、海の歩調に合わせてくれているのだろう。

二人の間にはあまり会話がなかった。海はどちらかと言えば、沈黙があまり好きではない。だがクレフといるときは別だった。今の、この静かな時間も苦にはならなかった。不思議な人だと、海はやや前を歩くクレフの横顔を見ながら思った。

「……ウミ」
クレフが徐に口を開いた。海は歩きながら「なに?」と返事をする。クレフは前を向いたまま、歩く速度も変えない。ちらりと覗く耳のピアスが、一歩歩くたびにきらりと光る。

「私が死んでも、お前はあのように哀しんでくれるのだろうか」
「……は?」
想定外のクレフの言葉に、海は思わず、平坦な道なのに躓きそうになった。2, 3歩小走りをして、クレフを前から覗き込む。クレフが立ち止まってくれないので、彼の顔を正面から見るにはそうするしかないのだ。クレフはちらりとこちらを見上げると、「いや…」と苦笑した。

「お前の哀しみようを見ていたら、ついそんなことを考えてしまってな。年の所為かもしれん」
「あなた、その姿で『年の所為』とか言っても全然説得力がないこと、分かってる?」

ははっとクレフが吹き出した。至って真面目に言ったつもりだったのに、と海は少し面食らう。だがそんな風におどけたクレフを見るのはほとんど初めてに近くて、海はなんとなく咎められず、歩調を合わせるとクレフの横に並んだ。

「しかし……」 
クレフがきゅっと海の手を握った。 

「あの精獣も然り、お前に愛された者は、きっと幸せなのだろうな」
   え?」

とくん、と心臓が波打って、海は思わずクレフを見下ろした。彼は目を細めたまま、どこか遠くを見ているようだった。決して視線がぶつからないのに、彼の全てがまるで自分を意識しているように感じて、海はどぎまぎした。
海は正面を向くと、クレフの手を握りなおした。小さくて細くて、とても温かい手だった。

「……いやよ」
え、と顔を上げたクレフの視線を頬に感じたが、海は彼の方を見なかった。

「クレフが私より先に死ぬなんて、いやよ」
ぐっとクレフが口を噤むのが、繋いだ手から伝わってくる。そうしてようやく、海は彼を見て悪戯に微笑んだ。

「クレフと言えば、不老長寿なんだから」
クレフが目を丸くする。そんな表情をすると、クレフは本当に子供にしか見えない。思わずくすりと笑った海に、クレフは面白くなさそうに口を尖らせると小さく溜め息を吐いた。

「……まったく、人を化け物のように言う」
そう言ったクレフは本当に不機嫌そうに見えたが、海がくすくすと笑い続けていると、やがて彼にもそれが伝染したのかふっと口元を緩め、微笑んだ。

そのまま手を繋いで、城への道を歩いていく。


見上げた蒼穹に、純白の羽根がひらりと舞った。







  • Written by 未由葵 / 蒼穹楼
    作者コメント
    このたびは素敵な企画をありがとうございます!僭越ながら参加させていただきました。
    この作品のコンセプトは、「クレフが海ちゃんのことを好きになるきっかけを海ちゃん目線で書く」というものでしたが……難しかったです(苦笑)

    未由葵より、クレ海をこよなく愛する皆様に愛を込めて。