バレンタインの近いブラックマリア、室内中央にかけられた上品なシャンデリアに人々が目をやることはない。この季節の主役はショーケース。
可愛らしい高級プラリネやチョコレートケーキが並ぶクリスタルの箱がいつもよりも輝いて見える。
いつもは静かで品のあるブラックマリアの店内、それが今年は大混雑。あれだけ広告や雑誌に宣伝を入れていては無理のないことだ。
店の入り口をくぐり、目に飛び込んでくるのは白鋼石というダイヤモンドとガラスの混じり合った不純物質で作られたショーケース、そして左側には隣接のカフェ。
オルディーな感じが漂う趣のあるこの店に初めて足を踏み入れたのは6年前。
知り合いのパティシエが開店させたときからの常連クロロは、カフェの方に目をやって今日は座れそうにないな、とレジ後方の厨房の曇りガラスを見つめた。
電気はまだついているしかなりの人数の気配がある。
仕事はまだ終わっていないらしい。
いまごろ今年のバレンタイン業務にラストスパートをかけているころだろう。
ふと目に入ったレジ上にかけられた先代の写真に目を細めた。
パティシエとしてだけじゃない、念能力者としても名を馳せていた男がまさかあんなにポックリ逝くとは。
カランカラン、と厨房からレジにつながるドアが開かれた。
同時に厨房から響いたのどなり声にレジ係が驚いて振り返る。
厨房は防音加工済み、彼女が他のパティシエや弟子を怒鳴っているのはいつものこと。
温厚なでおっとりしている普段モードから仕事に切り替わるとあそこまで怒鳴れるのだからプロ根性とはすごい物だと毎回のように感心させられる。
初めて聞いた時は驚いたが、マスターがいない今、仲間に厳しく当たれるのは彼女しかいない。
これだけの店をまとめるパティシエ達だ、甘い教育は受けていないだろう。
おそらく心の中では怒鳴りたくない、と思っているだろうから忙しい季節はメンタル面がやられてないか心配ではあるが。
厨房から顔を出したが弟子にした2人の内の1人、シノン。ポテポテと帽子をとりながらフロアへ向かい歩いてくる。
「シノン。」
「あ、クロロさんこんにちは。師匠待ちですか?」
「ああ。あのどなり声を聞く限りまだ終わりそうにないな。」
「何でも数時間前に店頭販売のケーキのまとめ買いがあったらしくて、若旦那が製作を200ホール追加したんです。」
「・・・なるほど。それで機嫌も最悪ってことか。」
苦い相槌をうち、シノンはクロロを従業員用の控え室へ連れ、そこでコーヒーを淹れた。
普通の知り合いはここに通せない、だがクロロは先代マスターの知り合いでブラックマリアの常連中の常連、それに目下この店をまとめるパティシエの恋人だ。
若旦那が立ち入り禁止を言い渡せる人物ではない。
「師匠の肺活量はすごいですね、僕毎日怒鳴られてばかりですよ。」
笑いながら設置された自動販売機のボタンを押すシノンの顔には疲れの表情が見え隠れする。
「辛くないのか?」
あのが弟子をとったと聞いた時は年月の過ぎる早さに驚いた。
作っては泣いてを繰り返していたひよっこが成長した期間じゃよ、と最後に会ったマスターが笑っていたのを思い出す。
「怒鳴られるのは別に…仕事はつらいですよ。でも師匠の下でならこれからも続けようって思えます。」
そうか、と一言うなづいてコーヒーを飲むクロロを本当に綺麗な人だな、とレモンソーダの缶を握った。
「でも師匠には一生たどりつけない気がするんですよね。」
昨日、遅番で師匠と最後まで残っていた双子弟子カノンを迎えに行った時に覗いた厨房。
そこで師匠が独り、作っていたケーキを思い出す。
真っ黒なシナモンが薫るパカパカ島原産のカカオマスで作られたダークチョコレートの中にマシュマロのように弾力のあるムース状の癖のあるヌガーを閉じ込める製法はまだこの世で発表されていない彼女のオリジナル。
口に含んだ瞬間に溶け出す様に、チョコレートケーキ土台にはスポンジは使わずオレンジやラムのムース一層一層をダークチョコレートで包み最終的に台にする技術、できない以前にそんな製法を考えつくセンスが自分にはない。
「も6年前は今のお前と同じことを言っていたさ。」
自分の女が選んだ弟子だ、才能は間違いないだろう。
テーブルに置かれたマスターの著書を開くと飛び込んできたブラックマリア創業当初の従業員写真。
大分若い恋人の姿に自然と小さな笑いが起きた。
有名な・という人間の下で学べる喜びと隣り合わせにあるプレッシャーと不安はそう簡単にきえるものじゃない。
「クロロさん、師匠とカノンが終わるまで1杯飲みに行きませんか?その、師匠の…昔話きかせてください。」
「まだ未成年のくせに相変わらずのアル中だな。」
まだコヒーの入ったカップをアンティーク調のテーブルに置き、クロロは珍しい誘いに腰をあげた。
奇しくも話して聞かせてやれるほど俺はの努力や成功を理解していないのだが。
負けず嫌いな女だ、何がどれだけ大変だったかなんて話そうとしない。
限界を超えてからでないと泣きついてこないのだから達が悪い。
一度堕ち込み過ぎが原因でマスターに鬱を疑われ精神科に引きづられていった時のことでも話そうか、シオンを助手席に乗せた車のアクセルを踏みつけ珍しく甘い葉巻に口をつけた。
1杯を交わし外に出ると冷え込んだ空気が全身を刺激した。街にはもうネオンが輝いている。
「そろそろ仕事も終わるころですね。」
ブラックマリアも見事にライトアップさせている。店頭から覗く厨房のライトは既に消されていた。
ふと脳裏によみがえった昨晩、厨房でカノンと見たカルラ・バーゼルの姿。
お菓子を相手にしている時いつもは怒鳴って、怒ってばかりの彼女が
優しそうな笑みで、幸せそうにケーキに目をやりながらカードを書いていたのは印象的だった。
新星、天才という言葉が彼女の代名詞のようになってしまっているけれど、普段は普通の女の子なんだ。
あのチョコレートケーキの行き先なんて聞かなくても分かる。
ブラックマリアのケーキじゃない、彼女のプライベート用。
有名パティシエが一度だけ作る貴重なチョコレートケーキ。全く新しい製法で出来た作品は創作品価値的に言えばノーベルパティシエ賞もの。
あんなすごい作品をもらえるクロロさんは今年一番の幸せものかも知れない。
師匠はいつも言ってる、目標を持てと。それが一番早い成長方法らしい。
クロロさんの背中を初めて見た時確信を持ったこと、それは彼女が目標にしている人物はマスターだけじゃないということ。
きっと彼女は彼女の恋人を何かしらの目標としている。
あの彼女の目標になる位だからすごい男なのだろう。
数週間前その彼に試作品を認めてもらったんだ、それは喜ばずにはいられなかった。
師匠には調子に乗るな、と怒られたけれど。
明日ブラックマリアのケーキで幸せになる人はこのロマンに何人いるだろう。
みんな美味しいと笑ってくれるのだろうか。
そして師匠のケーキは今自分の横にいる人物をどれだけ幸せにするんだろう。
ブラックマリアの従業員口からパティシエがぞろぞろ出てきた。
一番最後に出てきたのは、厨房での顔でない師匠とカノン。
師匠は手袋をはめた手で黒い箱を大事そうに抱えている。頭には言うまでもない、いつもの芋虫ニット帽子。
本人いわく、寒さにとても弱い人間なので普通の帽子じゃ寒さをしのげない。
「お待たせ、クロロ。ごめんね、待たせたでしょ?」
首を横に振り、自然と師匠をコートに包んだこの男の人はやっぱり凄くかっこいい。
「じゃぁシノン、カノンまた来週ね。」
あの箱と彼女にGood Luckと手を振りって、180度違う帰路を歩き出した。
乾いた風吹くロマン市。
明日のバレンタインデー、どうかこの街にブラックマリアの幸せがたくさんおとずれますように。
『ブラックマリア』
それは人々が目的を持ち集うところ。
幸せのお菓子を求める人々と、幸せのお菓子を作りだす優秀なパティシエによって作りだされる
最高の洋菓子店