フレアショートパンツから伸びた長い足を曲げてつま先をお気に入りのパンプスに収める。 ひび割れた鏡面で髪型のチェックをすませるとは部屋を出た。 色あせた絨毯が敷き詰められた長い長い廊下は窓がないせいで暗く、等間隔で並んだドアについた金メッキのナンバープレートだけが角度によってあやしく光る。 現在時刻は午後6時57分。寝起きの悪い仲間たちもさすがに活動を開始している時間帯だがは誰とも会わず、その理由を思い出しながら階段を下りた。 階下には200名ほどを収容可能なシアターがあり、半円状に並ぶシートの向こうの奥まったところには舞台がある。音響のためか天井は高く不思議な形をしており、誰もいないとわかっていてもいつものくせで顔を覗かせたはえんじ色の垂れ幕の下に上質なオーラを見つけた。 男は額に包帯を巻き、形よく組んだ足の上で本を広げている。彼女が声をかける前に先んじて面を上げ「久しぶりだな」と言った。ペパーミントのキャンディを舐めた時のようなひやっとした緊張感が走る。はスロープを駆け下りた。 「団長、いつ戻って来たの?」 「今しがただ」 「連絡してくれたら良かったのに。今日はみんないないの」 盗みと殺しとバトルと里帰りと、とは指を折る。仕事以外は好きに行動する団員たちだが拠点はアジトにあり、中にはまったく寄り付かない団員もいるにはいるが常に数人は滞在している。それが今日は奇跡的とも呼べる偶然で出払っていた。 「構わない、仕事の話で戻ったわけじゃないんだ」 クロロはすでに視線を本に落としている。彼の背後には書物が雑然と置かれ、はそれに目をやって次にシックな黒いスーツの肩口を見た。ほのかに香るのは血の匂いと女性もののフレグランス。廃墟となった元演劇場は落ち着かないほど音がなく、は胸の高さの舞台に背を預けると努めて感情を含まない声で誘った。 「ねえ団長、今夜って暇?暇なら飲みに行こうよ」 「お前、出かけるところじゃなかったのか」 「え?私?ううん、ぜんぜん」 振動を始めた携帯電話は背中へ隠し、彼女はボーイフレンドへの言い訳を考えながらにっこりと笑う。 ありとあらゆる人種がひしめき合って踊っている。ソファの色がわからないのは暗いからではなく次々変わるライトのせいだ。 浅黒い肌の男もいれば黄色人も白人もいる。老人もいれば背伸びをした中学生くらいの少女もいる。汗だくで踊っていた男が女の腰を抱いて濃厚なキスをはじめる。けん銃を携えたポリスもいれば違法薬物の売人もいる。情報屋やごく普通のサラリーマンもいれば日雇い労働者もいる。まるでサーカスだ、とは思った。 「座らないのか」 クラシカルなソファに座ったクロロが物見見物をしていた彼女を呼ぶ。 こぼれたアルコールや充満する副流煙、きつい香水やジャンクフードの出す安っぽいにおいや飛び散る汗やねばついた体液といったおよそ想像しうる全ての猥雑さがフロアには集まっていた。 「驚いた、団長もダンスホールなんて来るんだ」 言いながら腰を落としたは足を組んでパンプスの裏を指でこする。足元には白い粉が散らばっていた。クロロは気にするふうもなくロングネックの小ぶりな瓶ビールを彼女に手渡す。 「慣れればそれほど騒がしくも感じない」 「そうじゃなくって、踊ったりもするの?まさかここで本読まないよね?」 「当たり前だろ」 「ね、踊るの?団長が踊るとこ見てみたーい!」 お互い声を張らないと聞き取れない程度には騒がしい。クロロは屈託なく笑うとビールに手を伸ばした。 「じゃあ後でな」 片腕をソファの背もたれに掛けて一息に飲み干す。あんまり美味しそうに飲むのでもすでに栓の抜かれている瓶に口をつけた。ある意味予想通りのぬるく水っぽい液体が喉を通る。中身のチープさをカバーするためなのか、やたら凝ったカッコいいラベルが貼られていた。 はそれを爪でなぞり、もう一口飲んでからテーブルに戻した。山盛りのチョコレートを一つつまんで口に放る。クロロとの間には0.5人分の空間があり、これは上司と部下の正しい距離感だと彼女は思っている。 「団長ってコーヒーにはこだわるのにアルコールは何でもいいのね」 「まあそうかもな。べろべろに酔ったら味なんてどうでもよくなるしな」 「でも団長って酔っぱらっても頭のどこかはちゃんと冴えてそう」 「それは俺に限ったことじゃない、お前だってそうだろ?」 「そうね、でもそれってさびしい。正体なくなるまで泥酔してはっちゃけてた頃がちょっと懐かしいな」 「お前いつから飲酒しているんだ」 クロロは呆れて息をつくが、そういう彼も幼い頃から仲間たちと興味本位で飲んでいた。彼は空になった瓶を振ってバーカウンターに目を転じる。黒い肌のいかつい店員は鼻からコカインを吸い込むのに忙しい。たとえ暇でも注文を取りに来ることはないだろう。 「ちょっと待て、酒を買ってくる」 「私ラムコーク」 「ないよ、そんなもん。ラムだけでいいだろ」 コーラもない店なんてあるの、と彼女が驚いている間にクロロが戻って来る。彼はダークラムの一リットルボトルをテーブルに置くと先ほどと同じ瓶ビールに口をつけた。どうやらビールはその一種類しかないらしい。 は目の前に置かれた否応なしの存在感から目を逸らす。 「団長、私ホワイトかゴールドじゃないと飲めないの」 「わがまま言うな、それしかなかったんだ」 「じゃあグラスは?」 「売り切れらしい。適当な客から奪って自分で洗って来いよ」 はボトルのネックを指の力だけで切り飛ばし、飲めないダークラムをラッパ飲みした。口端からはカラメル色が零れ落ちて肩開きのゆったりとしたニットを濡らす。 「グラスは必要なかったな、」 「団長エスコートする気ゼロなのね」 むっとして濡れた唇をぬぐう。クロロは笑いを収めて当然のように言った。 「俺にそんなものを期待するな」 「もし私が団長好みの美人でグラマーな子だったら違うんでしょ」 「外見はどうでもいいんだよ、要は仲間かそれ以外かってことだ。仲間には必要ないだろ」 「団長にとって、団員は恋愛対象にはならないの?」 「ああ」 「どうして?」 「俺は惚れた女にすすんで死ねとは言いたくない、それだけだ」 クロロは彼女の手からボトルを受け取り同じように傾けて喉を鳴らす。彼の目が楽しげだったのでは内心ほっとしていた。メンバーの補充だと言われ幻影旅団に誘われたが入団を決めたのは興味があったからだ。クロロ=ルシルフルという人間に。他の団員とは腹を割って飲めるようになった今でも彼だけはどこまで踏み込んでいいのか手探りだ。そして今日一つわかった。幻影旅団団長はわりとロマンチスト。 はパンプスを脱いで膝を抱えるとフロアの客たちに目をやった。 ダンス・チューンで踊り狂う客は誰もこちらを見ていない。ちょうどフロアの端と端で向かい合うソファにはマフィア映画でよく見る開始五分で死ぬチンピラ風の男が寄り添う女の乳房を揉んでいた。 ビックサイズのホットドックを頬張った男が目の前を通り過ぎる。真っ赤な口紅をこれでもかと塗りたくった女二人がディープキスの合間に顔を見合わせて微笑む。レズビアンなのだろう。バストもヒップもホルスタインのようで、豊満な肉をきついドレスに押し込んでいる。誰も彼もが自分たちのことで忙しく、他人などどうでもいいと思っている。 「あれ、ねえ団長」 「どうした」 「この店ってなんかへんよ」 立てた膝をソファに沈めては背筋を伸ばす。トランス状態の客たちを注意深く観察した。 「・・なんか、なんて言うか、みんないい子過ぎない?」 「酒とドラッグとセックスがそこらに転がってるのを除けばな」 「団長、私マジメに言ってるの。この店へんよ、どの客も他人に迷惑かけてないんだもん」 当たり前と言えば当たり前だが奇妙だ。肩がぶつかっただけでも乱闘騒ぎを起こす者や人の女に目配せするプレイボーイは大抵どのダンスホールにもいる。ただでさえ酒が入って理性も沸点も低下している。それなのにこの店の客は誰も彼もがエチケットだけは守っている。 「鋭いな、ここは普通の店じゃない」 ソファに浅く腰かけたクロロが笑い混じりに言う。はさまよわせていた視線を引き戻した。 「この店はオーナーも客もみな流星街出身者だ」 「えっ?そうなの?じゃあ私・・」 「お前は俺たちの仲間だろ、文句を言うやつはいない」 小さな変化を見咎められないようはうつむいて飲み残しのビールに手を伸ばす。お腹のあたりが熱くなるのを感じた。 この男はアメとムチの使い方が神がかり的に上手い。それでいてわざとらしくない。少なくとも相手を興ざめさせない程度には。 天井から吊り下げられた三つのミラーボールがライトに合わせて赤や青や紫とせわしなく変わる。もちろんLEDなど内臓されていない古き良きディスコボールだ。 「どうした、気分でも悪いのか」 黙りこくったにクロロが声をかける。はやたらと甘いチョコレートを新たに一つ手に取って舐めた。 「団長って今特定の相手はいるの?特定じゃなくてもガールフレンドとか」 「たまに会う女ならいるにはいるな」 「つまり、後者ってわけね。ガールフレンドが本命に昇格することはないの?」 「その言葉そっくりお前に返してやるよ」 「私に限って言えばなしかな。ボーイフレンドはエスコート上手で適度に楽しませてくれればいいだけだから」 「俺も似たようなもんだ。要は相手の本質を知るような泥臭い付き合いを避けているんだろうな」 ナッツを奥歯で噛み砕く。はふと、この内側があまり見えない上司が実は自分と似ているのではないかと考えた。本心をさらけ出せる相手を欲しながら、その反面では自分を見せるのを恐れている。だからそうしなくてもいい相手としか付き合わない。 だけれど本当はそんな戸惑いすらバカらしいと思えるような運命の誰かを探し続けている。クロロ=ルシルフルが心から人を愛するとすれば、それは案外どこにでもいるような特に秀でたところのない普通の女の子なのかもしれない。 「じゃあ団長、私と何もかもを見せあえるような付き合いをしてみない?」 「お前がクモを抜けるなら考えてもいい」 「よく言うわ、はいそうですかって私が脱退したら速攻殺すくせに」 クロロは今日一番の陽気な声で笑った。 「よくわかっているな、その程度の覚悟で入団したやつには当然の制裁だろ?」 「もし私が団長を好きになったらそれこそ悲劇ね、団員でいることで受け入れてもらえないのに抜けたら殺される」 「身も蓋もない言い方だが、まあそうだな」 「そんな不毛な恋をするくらいならボーイフレンドとよろしくやっといた方がいいってことね」 わっと歓声が上がってダンスフロアの雑踏が一際大きくなる。マイノリティな顔立ちのDJが聴衆を湧き立たせるために選んだキラーチューンはでも知っている楽曲だった。それに合わせて身体を揺らす男や女やその中間たち。ダンスホールの熱気は濁流のようにうねり出す。転がったパンプスに伸ばしかけた手を戻し、は裸足で立ち上がった。 「踊ろ、団長、ステップなんて知らないけど」 「ここはダンススクールじゃない、なんだっていいんだよ」 クロロはスーツの上着を脱いでネクタイを引き抜く。途中すれ違った客にシャンパンを振る舞われ、二人はそれぞれ二杯ずつ飲んだ。 異様な熱気に包まれたフロアへ身を投じてもみくちゃになりながら汗だくで踊り、誰かが誰かの足を踏んでも誰かが誰かにぶつかっても笑い飛ばす。やみくもに手足を動かすだけの男もいればジルバを踊り出す男女もいる。どこかで誰かが嘔吐してその横ではポップコーンが空を舞う。ごきげんになった数人が天井目がけてけん銃をぶっ放す。濃い硝煙がダンスホールを包む中隅っこでは服をずらして行為をはじめるゲイのカップル。 なんでもありだ。は初見でこの店をサーカスのようだと思ったが、正しくはサファリ・パークだ。肉食獣も草食獣も誰も彼もが好き勝手に踊って騒いで愛をささやく。外での地位や立場はポップコーンと一緒に弾けた。 は血流がそっくりそのままアルコールに入れ替えられたような錯覚にとらわれるまで飲みまくり、同じ程度に酔っぱらったクロロと時には大声で笑い合い時には色っぽさの欠片もないやり方で腰を抱き合い夜は続いた。 「おやまあクロロかい、久しいねえ」 モップ片手に笑う老婆をはぼんやりと見上げた。落ちくぼんだ瞳はの数センチ横を見ており、自分が呼ばれたわけではないので彼女は再び身を沈めた。頬に触れるシャツ越しの体温が心地よく、このまま身を委ねていたい誘惑に勝てない。しかし真下から発せられた声にのまどろみは一瞬で消えた。声の主がもぞりと動く。 「・・ん、まだ生きてたのか、ばあさん」 「生きてて悪かったね、あたしゃこの通りぴんぴんさ」 「っ、飲み過ぎたか・・もう少し小声で喋ってくれ」 「しるもんかね。掃除の邪魔だ、ほれどきな」 けばだったモップを振り回す老婆を絞殺したい衝動にかられてクロロは上半身を起こす。彼は腕に抱いた女の髪を無意識に撫でており、右手には壁、左手にはソファの背中という狭い空間で眠っていたことを理解した。 「ばあさん、今何時だ」 「もうお天道さんは昇り切ってんだよ、いつまでちちくりあってんだかねえ」 老婆がぐほ、ぐほ、と気味の悪い笑い声を上げる。クロロは無視して己の胸で死んだように眠る女の肩を引きはがした。起きろ、と声をかけると長いまつ毛を伏せたまま気まずそうにが身を起こす。垂れた髪がクロロの腕にふさりとかかった。彼は目をしばたかせている。 「・・・?お前、何やってるんだ」 思わぬ相手にたじろぐが、徐々によみがえる昨夜の記憶。クロロはそうか、と嘆息した。 「・・・・・お、おはよう。団長」 「ああ、おはよう・・・」 「飲み過ぎた、みたい・・」 「俺もだ・・・頭が割れそうだ」 二人は寝起きの気だるさの中でも脳みそだけはフル回転していた。はさり気なく着衣の乱れをチェックして、ショートパンツの下にきちんと下着をつけていることに胸をなでおろす。 察したクロロも目顔で頷き、ソファを蹴って起き上がると至る所で酔いつぶれた客たちを見下ろした。老婆はおざなりにモップ掛けをしながら罵声と共に別のカップルを叩き起こしている。 クロロの目線はフロアに転がった赤いパンプスにふと止まり、彼は近づいてそれを拾い上げた。もう片方はなぜか見つからない。 「団長、コーヒーでも飲んで帰らない?その前に顔洗いたいけど」 ごわついた髪を耳にかけてが立ち上がる。彼女はメイクの薄れを気にしてか指先で軽く唇に触れた。その無防備な仕草がこれまでに見たどの表情よりも魅力的だとクロロは思ったが、口にはせずに片足だけのパンプスをカウンターに乗せる。夜の魔法が解けたダンスホールは狭く薄汚く白い光に満ちていた。 ジェンガ (男は確かに耳にした。綺麗に積み上げられたジェンガが崩れる最初の音を) 2011.5.5 大好きなichさんへ! |